「勿来の関」が水戸藩の江戸彰考館の創作造語だったことから「蝦夷よ来る勿れ」も、近年作られた標語であり、平安の和歌の時代を計る物差しにすべきではないと思います。これを物差しにしていたから、平安の頃の蝦夷は北上の方にいたのに、いわきで「蝦夷よ来る勿れ」すなわち「勿来」を詠うのはおかしいという論理が出てきたようです。
「勿来」の文字は赤水が『東奥紀行』でいわきの関に対して「名古曽関 一作 勿来関」として紹介してから有名になりました。このことがわかれば利府説はありえません。
「勿来の関」が水戸藩の江戸彰考館の創作造語だったことから「蝦夷よ来る勿れ」も、近年作られた標語であり、平安の和歌の時代を計る物差しにすべきではないと思います。これを物差しにしていたから、平安の頃の蝦夷は北上の方にいたのに、いわきで「蝦夷よ来る勿れ」すなわち「勿来」を詠うのはおかしいという論理が出てきたようです。
「勿来」の文字は赤水が『東奥紀行』でいわきの関に対して「名古曽関 一作 勿来関」として紹介してから有名になりました。このことがわかれば利府説はありえません。