奥羽観跡聞老志
2021.06.11
奥羽観跡聞老志
この書に、なこその関を詠った万葉の和歌がいくつも紹介されている。その全ての歌が、いわきの奈古曽の関を詠ったものとして記されている。
利府説の依書、『奥州名所図会』は、伊達領内、仙台の神官が作ったものである。
それよりおよそ百年前にその伊達藩の藩主の命で作られたのがこの著である。
奈古曾関は、この著の「菊田郡」の中で、実に詳細に紙数を使って説明されている。
「立別れ二十日あまりになりけり けふ(今日)やなこその関をこゆらん」
平安末期の1104年頃、源師頼が詠んだ和歌で「堀川院百首」に収められている。
都から「なこその関」までの距離を一般人の平均歩測で割ると符合している。
「九面や 浪打ちよせて道もなし ここをなこそのせきといふらん」
この歌の作者が西行法師になっていますが、西行の歌にはないようです。
似た歌で飛鳥井雅宣の歌があります。
「九面や潮満ちくれば道もなし ここをなこそのせきといふらん」
江戸時代になったばかりの1609年頃のものですが、当地方では有名な歌です。この歌と混同したように思えます。九面にあった関は、切通しの関のことで江戸時代初頭にできた新道です。西行の時代は旧道(ほぼ現在地)にあったと思われます。
菊田郡の奈古曾関とは、いわきの現在地である。
名古曾関が利府にあったのなら、何故この書で菊田郡の中に出てくるのか。
答えは簡単である。
奈(名)古曾関は、元々利府にはなく、いわきにしかなかったからである。
この著の奈古曾の説明の後に、万葉の詠がいくつも紹介されている。
全ての歌が、いわきの奈古曾関を歌ったものとして記されている。
利府論者の方々に問いたい。
それでも貴方は、勿来関は利府だというのかと。
表紙 当会所蔵は、ミシガン大学図書館の蔵印のあるニ十冊全巻である。