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「なこその関」 いわき所在の蓋然性

副題 飛鳥井家「家集」 に見る 「なこその関」1) の連続性について 2024,2,24 勿来関研究会 文責 橋本清流

  1. 「なこその関」いわき所在の概括

江戸時代半ばから末期に至る 「なこその関」のいわき所在を示す文献史料は、数十点以上に及ぶ。では江戸時代初頭以前はというと、限られてくる。まず、最近私共が紹介した『太平記大全』 (1659年) を挙げる事ができる。そこに「名古曽ノ関打チ越ヘテ岩城ノ郡二至ル」とあるからである。三万の軍騎が常陸国から岩城郡を経て一時期府を置いた伊達の霊山に向かったというのである。軍記なので一次史料ではないが、連載物で広く読まれていた冊子である。地理的記述は信ずることができる。手元にあるのは五代将軍綱吉が所持していたものなので、将軍学の教材としも使われていたのである。この記述から名古曽の関が常陸国と岩城郡との間にあって、軍馬が打ち越えて行ける程度の小高い山の上にあることがわかる。北茨城の富士ヶ丘といわき側の出蔵・酒井街道の国境を彷彿させる表現である。

「なこその関」 いわき所在を示す次の史料として 『太平記大全』 のおよそ五十年前に、本論の主人公になる飛鳥井雅宣が1609年頃に実地で詠った歌がある。「ここつらや しおみちくれば みちもなし ここをな こそのせきといふらむ」 (東遊雑記) である。この歌には 「九面(ここづら)」 と 「なこその関」 という二つの名称が出てくる。場所を特定できる名称が一詩に二つある歌は少ない。このような歌を歌人が詠むだろうかという疑問があるためか、いわきの地域史家は、歴史を語る資料にしていない。したがってもし、この歌の 真実性を説明できるなら、先の 『太平記大全』 を数十年遡って 「なこその関」 いわき所在を立証できるのである。

次に平安時代の史料について述べる。『月詣和歌集』にある源義家の歌の詞書に「みちのくに くたりまいりけるときなこその関にてよめる」 (1182年) とある。また 『千載和歌集』 の同歌の詞書に「陸奥国にまかりける時なこその関にて花のちりければよめる」 (1188年) とある。

そして『後拾遺和歌集』 の能因の歌の詞書には 「みちのくにまかり下りけるに白川の関にてよみ侍りける」 とある。これらを比較すると 「なこその関」 が白河関同様、都からきて陸奥の国に入ってすぐのところにあったことになる。

また『堀川院百首』 にある 1104年頃の源師頼の 「立別 廿日あまりに成りにけり けふや 名社の関や越らん」 2) によって、都から名古曽の関までの距離を平均歩速(約32キロ/日)で除すと二十一日ほどにな る。歌と合致することがわかる。これらによって名古曽の関が、東は海岸の九面から西は出蔵の山まで東西数キロ 3) の範囲を出るものではないことがわかるのである。

このように「なこその関」 いわき所在を示す史料を概括するとわかることがある。江戸時代と平安時代の史料はあるものの、その間の鎌倉時代から室町、安土桃山時代に至るおよそ四百年間の史料がなかったのである。本稿の目的は、そこを埋めることである。

2. 飛鳥井家の「なこその関」 の歌

飛鳥井家は、鎌倉時代前期に飛鳥井雅経を祖として誕生した。父親難波頼経の家業としての蹴鞠を受け継 ぐとともに歌道に秀でていたため初代雅経は後鳥羽上皇に用いられた。1205年には、『新古今和歌集』の撰 者を命じられるほどだった。飛鳥井家系譜の中で、鎌倉時代後期頃から江戸時代初頭にかけて「なこその関」を和歌に詠った人物が四人いる。共に歌道家の飛鳥井本家を継いでいる人物なので、彼らが先祖の歌を知っていたことは当然である。そこで私は、この四人が歌った「なこその関」 は同じものであろうとの推測をしたのである。それが成り立てば名古曽の関がいわきに所在していたことになり、その確実性が江戸時代初頭より鎌倉時代半ばまで約三百年遡ることになるのである。

飛鳥井家の四人の歌を順を追ってみてみたい。まず初めに飛鳥井家第三代当主の雅有は、三首詠っている。

① 【 しひてゆく こころよいかに あつまちの なこそのせきの なをはきかすや 】 (隣女集) 私釈 どのようにすれば、東路の名古曽の関の名を聞かせて、この恋を諦めさせられるだろうか。

② 【 あふさかに あらぬなこその せきもりを わかこいちには たれかすゑけむ】 (隣女集) 私釈 逢坂の関にいないはずの名古曽の関守を我が恋路に誰がおいたのか。

③ なもつらし わかみひとつのためなれや ひともなこその せきのとさしは】 (雅有集) 私釈 自分のせいで、名古曽の関のように、この恋が閉ざされたのはつらいことだ。

この隣女集も雅有集も、飛鳥井家の歌をまとめたいわゆる「家集」であり、自分の歌だけでなく、先祖の歌も撰している。これらの歌集が飛鳥井家で作られ、師範書(家学) として使われていたことは論をまたない。この歌の制作年はわからないが、雅有の生没は1241年から1301年なので鎌倉時代半ばから後期になる。 次が飛鳥井家第七代当主雅世の和歌である。

④ 【わかかたに なこそのせきは なきものを いつあつまちに とほさかりけむ】(雅世集) 私釈 私の方には名古曽の関のように拒絶するようなものはなかったと思うのだが、どうして・・・

これも「雅世集」 と言われる飛鳥井家の 「家集」である。雅世の生没は1390年から1452年なので室町時代 前期の歌である。その子の八代当主雅親が詠んだ歌が次のものである。

⑤ 【 こころたに せめてかよはは あつまちの なこそのせきは よしへたつとも】 (続亜槐集) 私釈 たとえ私たちの間に東路の名古曽の関があっても、心さえ通じていれば・・・

これの続亜槐集も、飛鳥井家の「家集」 であり「家学」 として後代に伝えるために残したものである。 雅親の生没は1417年から1491年なので室町中期の歌と考えられる。

これらの歌を整理してみる。

①から⑤までは鎌倉時代後期から室町時代半ばまでのおよそ二百年間ほどの歌になる。「なこその関」が一貫して「恐ろしく・難き関」として詠まれているが、このころ関は廃止されていた。歌枕としてのみ使われていたのである。またこの三人は現地には来ていない。

3. 飛鳥井雅宣の 「なこその関」の歌

飛鳥井家で「なこその関」 を歌った四人目が本論の主人公の十四代当主雅宣である。難波宗勝とも飛鳥井雅胤ともいう。

私釈 潮が満ちてくると道もなくなるような九面4) だが、ここがあの名古曽の関というのか。

この歌を詠んだ雅宣の生没は、1586年から1651年である。1609年に事件を起こし、現いわき市遠野町に三年ほど流されていた。5) この歌はその時のものである。

その歌が載っている 『東遊雑記』 を書いた古川古松軒は、長久保赤水と歳の離れた盟友である。江戸彰考館 6) で仮借されたと考えられる 「勿来関」7) も使っている。彼は東北地方の旅から江戸への帰路、泉から植田ま で来て、数キロ南にある勿来の関に来なかった。植田から西に折れて御斉所街道を中通りに向かったのであ る。文中に「勿来」 の文字を使ったり、赤水作の勿来の関の漢詩などを紹介している。ちなみに『東遊雑記』刊行が1788年で赤水の 『東奥紀行』刊行が1792年である。古川古松軒は赤水の漢詩を本人より四年前に発表してしまっていたことになる。しかも『東遊雑記』の漢詩には作者の名前がない。二人の間柄を示すユニークな出来事である。 8) 飛鳥井雅宣の九面の歌が 『東遊雑記』に紹介されている理由を知るために、もう一度赤水の 『東奥紀行』を見てみる。すると頭注に次のようにあった。

『東遊雑記』は 「ここを」 で 『東奥紀行』 が 「これを」 になっているほかは同じである。現在地元いわき市の関跡近辺や遠野町の「住居跡」の歌碑は 『東遊雑記』を用いている。「勿来関」 に来ていない古川古松軒が地元にしか残っていない雅宣の歌を記している。それは、彼が江戸彰考館に出入りしていたからわかっていたのである。

それは『東奥紀行』には、数十年前の旅の下書き (2022年に国の重要文化財になった)があるのでわかる。九面の歌は、海のすぐそばを画いているので、切通 (斫通)の関を歌ったものである。ここは、幾度かの変遷を経て江戸時代当初に隧道から切通になった新道である。旧道はここから西におよそ870メートルほどの山中にあると『奥羽観跡聞老誌』 や 『新編常陸国誌』 は伝えている。現在の関跡地付近になる。

九面の歌の結びが 「なこそのせきといふらん」と単純な推量になっている。したがって名のある名古曽の 関とは、潮が満ちてくると路が無くなるような所だったのかということになる。

また「いふらん」 は、名古曽の関が陸奥国の入口にあることを事前に知っていたことを示している。かつて「なこその関」 が 「恐ろしく・難き関」 と歌われていたことを知っていたのである。

飛鳥井家に伝わる 「家集」 としての 「家学」 の重みを知れば、そのことは疑う余地のないことである。その関跡に来てみて、想像していたイメージと違うので「いふらん」と結んだのである。

  1. 「なこその関」 いわき所在の蓋然性

飛鳥井雅宣は、実際に現いわき市勿来町九面に来て、名古曽の関地を見聞したのである。したがって鎌倉時代中半から室町時代にかけて祖先が詠んだ 「なこその関」 と彼が歌った 「なこその関」 は、同一のものであるとの結論にいたった。

飛鳥井家累代の歌によって、「なこその関」 いわき所在が江戸時代初頭より鎌倉時代半ばまで、遡れることが明らかになったのである。

1) 本項では、和歌には 「なこその関」、江戸中期以前は 「名古曽の関」、その後は 「勿来関」を用いた。

2) 江戸期写本による。ふりがなは著者。

3) 南北は、現酒井と大高の郡役所跡を含む三キロの範囲を推定。

4) 九面は現在「ここづら」と発音されている。九浦がなまったものを漢字表記したともの考えられる。

5) 飛鳥井雅宣については、流島地を伊豆とする説もある。いわきの渡辺家(近年まであったが今は絶)に伝 えられていた話しもある。いわき市遠野小学校の一隅に、居住地跡として碑が建てられてある。 また同小学校校歌には 「あすかい」 の名が歌われている。

6) 水戸黄門が設けた『大日本史』 編纂のための修史局。江戸と水戸にあった。

7) 「勿来関」の初見は、(1707年)刊の森尚謙の 『優儼塾先生文集』になる。その次が1778年、長久保赤水の 「平潟洞門碑」になる。共に「勿来の関」 いわき所在を示すものである。又、二人は年代は違うが江戸彰考館の同門になる。

8) 『長久保赤水の交遊』 長久保片雲着 参照