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三古関サミットを祝す
三古関サミットを祝す
大和朝廷防衛のため太平洋側の常陸の国と陸奥の国の境に設けられたのが菊多(田)の関・後の勿来の関でした。
陸奥の国の戦いが終わり、例外を除き陸奥の国の全ての関が不要になりました。菊多の関と白河の関は例外として残されたのです。(関の勘過の令)
その後はじめて『なこその関』として和歌に登場しました。(小野小町)
だから「なこその関」は白河の関のことか菊多の関のことになります。
「なこそ」をどのように書こうが、使われていた関は白河と菊多の関しかないので、必然的に菊多の関が『なこその関』になります。
その後『菊多の関』の名称は忘れられ『なこそ・名古曽の関』だけが残り、江戸時代に隣の水戸藩によって『勿来関』の文字が創作され、今日に至っております。(森尚謙 儼塾集)
よく「蝦夷よ来るなかれ」と言われますが、江戸時代以前の文献には出てきません。むしろ、蝦夷を思いやる和歌はあります。
以上、勿来関研究会の史実史料に基づく見解です。
大昔の関は自然の地形や防塁などを造って敵を遣っ付けるためのものだったか、木材や竹などで柵を作る程度ものだったようです。人々から相当恐れられていたようすが多くの和歌などからも伺えます。
それから太平洋側の見張り所としても大切な役割がありました。
政権側にとってはそれほど重要な関だったのです。
官民勉強会と三古関サミットを提言実施されましたいわき市長様並びに関係者の皆様には、研究会を代表して篤く御礼申し上げます。
最後に愚文に微志を込め、勿来の関を愛した郷土史家故佐藤一先生に本文を捧げます。
2026年6月1日 勿来関研究会会長 橋本 清流 白鷺池の玄正庵にて