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21. 勿来関利府説の依書は偽文書(総括)

かつて、考古学では神の手やらが世を騒がせたことがあった。

又、最近では 『椿井文書』なるものが注目されている。街づくりや学校教育にも使われていたのだが、研究家によって偽文書と判明し、冊子にもなって行政が慌てたようだ。勿来関が利府にあったという話も、全く同じ構図にある。傷は深くならないうちに直すべきと思う。

当研究会の証拠提示の主張を冷静に検討し、子供らに正しい歴史を伝えて欲しい。当研究会の主張の一端を次下にまとめる。

① 奈良時代、柵関作りをした東蝦夷が朝廷から官位をもらっていた記録が太政官府にある。よって「蝦夷よ来る勿れ」は不合理である。

②「勿来」の文字は、江戸時代に水戸藩による一作なので「蝦夷よ来る勿れ」は、その後に創られた間違った言葉である。

③ 上記によって、利府説者たちが勿来関が蝦夷との境を指すというのは間違い。京都大沢の池に名古曽滝があり、橋本市に名古曽城跡がある。これらは蝦夷との境に全く関係ない。

④ 平安和歌のなこそ関は、848年の鹿島神社の神官通行拒否事件を受けて、名もわからない菊多の関を、名こそ忘れた(流れた)が程度の酒落で歌枕に登場した公算大。利府にこのような公文書あるいは一次史料は一切ない。

⑤ 『月詣和歌集』の詞書に「陸奥へ下り参りける時 名古曽の関にて詠める」とあり、能因の白河の歌の詞書と同様なので、名古曽関は国境の陸奥側すぐの所にあることが分かる。

⑥ 『千載和歌集』の詞書に「陸奥国にまかりける 時なこその関にて」とあるので、これからも名古曽関が国境の北側にあることが分かる。

⑦ 源師頼の歌に都を経ってから「廿日あまりに なりにけり けふやなこそのせきや越らん」(江戸時代の写本による)がある。いわきなら当時の平均歩測でピッタリ符合する。

⑧『夫木抄』の詠み人しらずの歌で「あぶくまを いづれとひとに とひつれは なこそのせきの あなたなりけり」がある。都から来て名古曽関の向こうに阿武隈があるという。よって、これからも名古曽関が利府ではないことが分かる。

⑨『太平記大全』に「名古曽の関打ち越えて石城郡に至る」とある。内容は室町期のものである。これ程明確なものはない。利府説者のこれに対するコメントを聞きたい。

江戸幕府の国境訴訟判決文で名古曽関跡が窪田(いわき市)側のものとして認定されている。後に出てきた利府説の依書『奥州名所図会』の比ではない。これは一次史料である。仮に江戸時代だけに絞って見ても、名古曽関がいわきにあったことは明らかである。利府の『奥州名所図会』はその百年以上後の神官作の観光用冊子である。

江戸幕府の入替地訴訟判決文で名古曽関跡が(いわき市側に)画かれている。これも一次史料である。江戸時代には、名古曽関がいわきだったことを国が公式に認めているのである。このようなものは、利府説には何もないのである。

⑫ 長久保赤水の『東奥紀行』に名古曽関一作勿来関として陸奥入口に登場する。重要文化財で一次史料である。

仙台藩の『奥羽観関聞老志』の菊田郡(いわき市)の項の中で、「奈(名)古曽関」が詳述されている。利府も仙台藩の中にある。その仙台藩が公文書の中で名古曽関がいわきの菊田にあるとしてその詳細を紹介しているのである。繰り返しになるが、仙台の殿様が名古曽関はいわきにあると言っているのだ。ここまでくれば勿来関が仙台藩の利府にはなかったことを御理解戴けたものと思う。

⑭ 仙台藩の『封内風土記』に利府森郷に「川は市川一つで下流で八幡川と合流する」旨記載されている。この書はいわば国勢調査のような公文書である。それがいつからか「勿来川」と変えたらしい。 「勿来」は、水戸藩内でいわきの名古曽の関に一作した文字であることが判明している。利府には市川というよい名前があるのだから元に戻した方がよい。又この仙台藩の公文書では、利府にあるのは「想 の関」となっている。そこに今では「勿来の関」の看板を立てている。「勿来」の文字は、いわきの関 に創られた文字である。町おこしの為の看板らしいが、後世に恥ずべきことである。やめるべきが子らへの責任である。

⑮ 仙台藩の『封内名跡志』に 「なこその関」が出てこない。これほどの名のある関跡が自領にあるなら、書かないわけがない。答えは簡単だ。初めからなかっただけのことである。

⑯ 長久保赤水は多賀城まで行っているが、勿来関を現いわき市の関跡としている。地理学者の彼が間違ったのではない。利府に勿来関など始めから無かっただけのことだ。(東奥紀行)

⑰ 利府説の依書の『奥州名所図会』に『前太平記』を引用したとして「これ今の総関通奥海道すなはち名古曽関なり」とある。ところが『前太平記』の原書に、そんなことは書かれていない。この書は偽文書である。利府説は、嘘の歴史を創ろうとしているのだ。

⑱ 同じく『奥州名所図会』の図上に「勿来神祠・勿来山」の文字が見える。「勿来」は長久保赤水が紹介した、いわきの名古曽関を指す文字である。ここからも偽文書であると分かる。

⑲ 同じく 『奥州名所図会』の中で、八幡太郎源義家の「吹く風を」の歌が、漢詩で紹介している。著者は、八幡神社の神職の身である。ここに利害がある。彼は漢詩に「勿来関」と記している。 既に御案内の通りで、この図会は偽文書である。

⑳ 同じく『奥州名所図会』の中に「勿来神祠」の『名古曽山の頂上にあり、祭る所は久奈斗(くなど)神。神書に曰く「伊弉諾尊曰く・・・岐神なり是れ来勿度(くなど)の神の名なり、以て関の名とするもの』旨が書かれてある。これを分析批評するのも憚れる。ましてや、記紀にはない。「来勿度神」には呆れてしまう。ここに利府説の根源の理がある。即ち久那土神を勿来関に仕立てたのだ。これは、正史料ではない。この一書以外に、勿来関利府説の依書はない。この書を文献的史料として利府説が出てきたのである。利府説者は、平安の和歌が裏付けだとも言っているが、その歌に利府を歌った証拠は何もない。

 20項目を挙げ、利府説を問うたが、勿来関がいわきにあったことを示す史料の、ほんの一部である。当研究会は、確かな史料を提示し歴史の真実に迫ろうとするものである。利府説は、勿来関がいわきにあったことをを否定して立論している。

しかもそのたった一冊の依書をよく見てみると、偽文書だったのである。

いわきの一部の著名な地域史家が、『奥州名所図会』の史料批判をせず、利府説をあおり、その後遺症が今でも続いていることは、誠に残念でならない。しかし、間違った歴史を子供たちに伝えるわけにはいかない。その思いによってこの項がある。『椿井文書』の二の舞を踏んではならない。 どうか。勿来関がいわき以外にあったと考えている方々には、20項目を熟慮されることを心から願うものである。

又、本項で不足の部分は、当ホームページの図書館や刊行本などをご覧戴きたい。最後に、名古曽関がいわきにあったことを示す江戸期の史料だけでも六十に迫るものがある。まして、切通の関は現存しているのである。本項と、当研究会の主張を思惟され、特に行政関係各位の御理解と御尽力を賜り、市の指定史跡になることを心より願うものである。

↓参考文献

奥州名所図会(仙台図書館本・角川書店本)・奥羽観関聞老志・封内風土記・封内名跡志・東奥紀行・前太平記・太平記大全・月詣和歌集・勅撰和歌集・新勅撰集・宗因奥州紀行・堀川院百首・古今類聚常陸国誌・新編常陸国誌・弘仁格抄・類聚三代格・ひたち帯・儼塾集・ 諸根樟一関係著・国境論争裁許書・他勿来関関係文献・利府説文献多数・佐藤一関係著