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20. 勿来関利府説はフェイクだ

勿来関について、現時点において大雑把な総括をしておきたい。

奈良時代から平安時代に掛けて、当時常陸の国の北端であった菊多(田)の地にあったとされる柵関が799年の弘仁格抄に「白河・菊多に合わせて60人の剗守」を配備するとして出て来るのが初見になる。その後、類聚三代格の835年の記に「白河・菊多両剗の事」として、今から400余年前に陸奥国に剗を置いた旨記されている。

400余年前といえば大化の改新 (645年) より200年も前のことになる。当地域には、その頃のものといわれる後田古墳から出土した家形棺がある。これは大和政権との深い係りを示す一例で、剗の存在と矛盾するように思える。

大化の改新後、書紀の六五五年の記に「柵作りをした東蝦夷九人等に朝廷が冠二階級を授けた」旨がある。断定はできないが、これが菊多の関だったのではないだろうか。又、書紀には津軽蝦夷も作柵をしたことが記されている。

いわきと青森の中間の仙台に多賀城府ができたのが七二四年(以降)なので、蝦夷対策が目的なら、七二四年には菊多関は不要だったはずなので、約六十九年間の命だったことになる。

しかし、柵作りを蝦夷がしていて、朝廷から位迄もらっていることからして、「蝦夷よ来る勿れ」は不合理である。勿来関利府説を言い出したいわきの郷土史家の方々の底流に「蝦夷よ来る勿れ」と平安時代に詠われた頃、蝦夷はもっと北の方にいたのだから、いわきを「勿来」と詠うわけがないという勘違いがあった。

そこに『奥州名所図会』が文献的裏付けとして浮上してきた。一人の勘違いが名のある人物を動かしグループ全体の行動に進化した。

ある者は、地域史誌に論文を、ある者は、地元紙に連載を、あるいは、パンフレットの折り込み配布とし、又河北新報に投稿、利府での講演、利府の立て看板推進、いわき市民利府見学会等々多岐にわたって勿来関を利府に移そうとしたのである。このグループが冊子を作るの にまさかいわき市から補助金は出ていないだろうことを願うが、グループの面々は役所関係者が多い。

① 「蝦夷よ来る勿れ」は近年の造語であり、真実ではない。作柵(関) は、蝦夷も一緒にやった。

②『奥州名所図会』は偽文書である。

③ 陸奥の国の征夷が811(812)年に終結していた。関は不要になった。

④ 「なこその関」の初見は小野小町の歌(850年頃)でこの時、陸奥の国で機能していたのは菊多と白河の関のみだった。(関の看過)③④は後日追記

利府説のたった一冊の依書の各所にフェイクが判明した。引用の原書を改ざんし、「勿来関」 を長久保赤水の著から盗用していた。「勿来関」は、水戸藩彰考館あたりが出所で、いわきの名古曽関に一作したものである。その他数点でフェイクがある。又、「常陸の菊田関を以て、奈古曾関と唱ふ。いづれを実地とせん。なほ後の考を待つ」と結んでいる。これをいわきの地域史家の方々は、「非常に謙虚な言葉」だと冊子で称賛していたが、自分の説に自信があるなら、後の考を待たないで証拠を披見すればよかったではないか。 作者は何の裏付けとなる史料も見せることなく、勿来関を自邦内に画いたのである。

⑤ 神の書に「久那斗(くなど)神は来勿度(くなど)神のことで勿来の関に縁している」とあるらしい。

利府の山の上にそのような神様がいたので、利府に勿来の関があったことになるらしい。この著が『奥州名所図会』である。二百年前は、神の言葉は絶対だったのかもしれない。私などはすぐに疑ってしまう。

最近『嘘でつくられた歴史で町おこし200年前のフェイク「椿井文書」に困惑するひとたち』 という記事を見た。「利府町勿来関」とあまりにも酷似しているので驚いた。 「椿井文書」も「奥州名所図会」と同じころの作品である。近年これによって町づくりまで始まっていたし、地元の歴史教育にも使われていた。現在関係行政等困惑しているという。町おこしになれば、嘘でもよいという意見もあるらしい。 利府や松島の商工会にはそんな方はいないと思うが、 嘘の歴史で青少年を育成してよいのだろうか。とくと考えるべきだろう。