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19. 源義家は、桜の散る頃、名古曽の関を通っていないのではないかという見解もありますが。
和歌は、心象風景を表現するものです。「吹く風を名古曽の関と思えども」の風は、名古曽で吹いている風か、都で吹いた風でしょうか。名古曽で詠むなら「思えども」にはならないでしょう。この歌で名古曽関を別な所に持って行こうとしたり、名古曽関そのものを否定する人もいますが、逆さまです。
月詣和歌集には、「みちのくへ くたりまいりけるとき」、千載和歌集には「陸奥国に まかりける時 はなのちりければよめる」と詞書にありますが、これらの和歌集は義家の歌から八十年も経っていることと、詞書には撰者の配慮があることを考慮すべきです。
義家がこの歌に何を秘めていたのかが重要なことです。単に散る桜がきれいだから詠んだのではなさそうです。
衣川で詠んだとされる阿部の貞任とやり取りした有名な歌がありますが、あれと同じようなことが、この歌にも感じられます。「道もせにちる」は、陸奥の栄光が散ってしまったということではないでしょうか。
私戦との汚名を着せられて帰郷した彼自身の心境を「散る山桜」として詠ったのではないだろうか、ということです。
朝廷に反発する歌を私選集でも、まして勅撰集に載せるわけにはいかない。それが八十年の歳月を要した理由でしょう。時が流れ、義家人気が高まり、勅撰集に載せられるようにはなったが、朝廷への露骨な批判を和らげなければならない。そこに編者が詞書に込めた妙技があります。
「陸奥の国に行った時、文武両道の将軍が落桜花を風流に詠う」読者が、このように読むような仕掛けが詞書にあるのです。
名古曽関を通っていないとか、その時桜が散っていなかったなどの論旨は、歌の本質を見ていません。