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17. 勿来関(菊田の関)の広域発掘調査を提言する

いつの頃からか、奥州三関との言葉がある。東山道の白河の関、東海道の勿来関、北陸道の鼠(念珠)ヶ関の三箇所を指すらしい。

この中で、指定史蹟になっていないのは、勿来の関だけである。鼠ヶ関(ねずがせき)は近年まで国指定だったが近くからさらに古い遺跡が出てきたので、一旦取り消し、新たに発掘されたものを鶴岡市の指定史跡に認定している。素早い対応である。

白河の関跡は、1800年に藩主松平定信公が比定した場所を1959年(昭和34年)から発掘調査し、柱建物跡、土坑(人為的に掘ったもの)、柵や須恵器や鉄製品が出土し、遺構、遺物、遺跡の立地的考察から、ここが白河関跡の条件にかなう点が多く(1966年に)国史跡として指定された(要約)と白河市の公式ホームページにある。 ウィキペディアには、土塁や空堀、柵木をめぐらせた古代の防禦施設を検出したとある。

前項で、県重要文化財専門委員会議長の矢代義定氏が佐藤一先生の著に序文を寄せたのが昭和三十年(1955) 九月である。その四年後から白河の関跡の発掘調査が行われているのである。では何故、いわきの勿来関跡が今日まで公には一度も発掘調査がされなかったのだろうとの疑問が出て来る。奥州三関と言われながら、他の二関は発掘調査によって史蹟の認定を受けている。本格的な発掘調査が行われなかった理由として考えられるのは、前項で述べたように、市町村合併の真っただ中だったからではないだろうか。残念ながら史跡認定になっていない。

次に、幾度もの発掘調査に関わらず、遺構、遺物が見つからず、史跡認定になっていないのが、琵琶湖と敦賀を結ぶラインにあったとされる愛発関(あらちのせき)である。いくつかの推定ルートがあり、時代によってどのルートを通っていたのかも不明なようである。(この点は菊多の関も全く同じ問題を抱えている。)

多くの説がある中で1996年から2000年まで可能性の高いとされた疋田・追分ルートを広範囲に渡って発掘調査を行ったが、遺構など何も出てこなかったようである。だからといって愛発関の存在を疑う者はいないので今後も根気強く、調査をしていただきたい。

それに比し江戸時代に使われていた名古曽切通関は遺構も、絵図や文献も多数ある。伊達藩が作った『奥羽観蹟聞老誌』(1719)には、常陸国との境界から七・八丁行った西の山の上に関跡があると記されている。平藩主が比定した現在地(付近)を指していることが分かる。江戸幕府の裁許状にも名古曽関の文字や略絵が描かれている。

これらから、江戸期の史料だけでも充分史跡認定になると思われるのだが、誰もやろうとしない。まずは、これをやるべきと思う。東は太平洋から西へ5kmの勿来全山の中で南北に横断できる道路の内、国道六号線や勿来駅から現関跡への道と、高速道路などの新しい道、それに江戸時代に新道として造られたことが明らかな切通の道を除き、ゴルフ場で消滅した幾本かの古道を加えると八本前後の道があったことが伺える。

南北朝期を画いた『太平記大全』では、三萬余騎が越える道をも名古曽の関と記している。この道は、平安時代に官道として使われていたであろう西側の出蔵酒井ルートしかない。しかし平安の和歌は、小野小町を始めとして、潮の匂いのするものが多い。

また、山中を歩くと熊ン道の山を登った所にある古舘(ふったて)も興味を引く。

公図では、現関跡 (碑)は関田長沢5-1の字(あざ)名地番になっているが、字切り図では関田関山99に見える。国調の時に何かあったのだろうが、残念に思う。関山の字名の方にしていただきたかったものである。現在地から北に150mほどのところが字切り図で三叉路になっている。道幅は、1.8m程度である。ここも重要ポイントと考えている。

当研究会でも、遺跡位置図に配色したり、勿来全域図に古道、古館をマーキングして思索し論議するのだが、能力の限界を知るばかりであり、やはり本格的なそれも広範囲に渡っての発掘調査を訴える所に行きつくのである。

発掘調査がされないので、山のあちこちで開発が進んでいる。ゴルフ場の中に何本かの古道らしいものがあったのだが、全滅している。

高速道路が走り、国道バイパスのトンネル工事も進んでいる。工場なども進出している。津波に影響されない、災害避難時の道路の必要性に異議はない。まして、トンネルである。ただ単なる県立公園では、事前発掘調査は必須条件になっていないのではないだろうか。

ともかく、これほどの歴史的に重要な奥州三関の一つが地元にあるのに、 勿来関文学歴史館に行っても、歌枕というだけで勿来の関の歴史も何もわからない。 常設展示に期待して来た観光客もがっかりしたとインターネットで書き込みをしている。ある関係者の言葉だが、勿来関研究会事務所の展示物の方がはるかに充実しているという。残念だが利府から吹いてきたやませで風邪を引いた方たちが運営しているように思える。長久保赤水の『東奥紀行』の「名古曽関 一作 勿来関」を見て、その後、利府説の依書の『奥州名所図会』の成立年と書中の源義家の歌の「勿来関」等をよくよくながめていただきたい。たった一冊のその書以外に利府説の根拠はないのだ。その一冊がいわきの「勿来関」を、あちこちに盗用しているのである。

このことがわかれば、昔から言われていた通り、勿来関は常陸国と陸奥国の境の現在地を含む当地にしかないことがご理解いただけると思う。

勿来関研究会は、「勿来関(菊多関) 広域発掘 調査」を提言します。

勿来関研究会は、「勿来関(菊多関) 広域発掘 調査」を提言します。

勿来関研究会は、「勿来関(菊多関) 広域発掘 調査」を提言します。