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18. いわき地方では、よく勿来とは「蝦夷よ来る勿れ」の意味と言われていますが。

明確な出所は不明ですが、県境を越えた茨城側でも言っているようです。おそらく、「勿来」の文字を考案した水戸藩から出たものと考えられます。関に関する古文献で「蝦夷よ来る勿れ」との記録はありません。 和歌や随筆にも「蝦夷よ来る勿れ」はありません。関の初見は、岡山県の和気関で西暦二百数十年頃と言われていますが、設置の理由はいわば身内の謀反を防御するためでした。その後の大化二(六四六)年の勅や養老律令(七一八)、平安時代の「義解」(八三三年)などによっても蝦夷からの防御を主としたものではなく、大和政権側の者に対しての取り締まりが目的だったようです。  

又、書紀の六五五年の記に「東の蝦夷九五人を朝廷が歓待し、柵養(境界柵作り)の任の蝦夷九人と津苅(津軽)の六人には、冠二階級を授けた」とあります。 関柵作りを蝦夷がしていたのです。「蝦夷よ来る勿れ」は符合しません。

この造語は、粗暴な一部の蝦夷と「勿来」の文字を組合わせて、近年作り上げられた言葉のようです。

従って、この考えで歴史を捉えると、間違ってしまいます。

実際に複数の地方史関係者が、

「暴れる蝦夷が、 いわきにいなかったのに、蝦夷よ来る勿れ という意味のなこそを和歌に詠うのはおかしいではないか。なこそはもっと北方なはず」

と真顔で論を唱えたのです。それが利府説の原動力になったのです。

奈良時代から室町時代までの和歌で、蝦夷を蔑視したり、拒絶するようなものは一首もありません。鎌倉初期の和歌に「えびすこそ物のあわれは知るときけいざ陸奥のおくへ行なむ」(釈慈鎖)があります。また、「勿来」の文字を創ったと思われる水戸藩でさえ、蝦夷には愛情をもって書き残しています。

当、勿来関研究会は、「勿来」が「蝦夷よ来る勿れ」を指すものではないので、この言葉は使うべきではないと主張します。