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17. 勿来関研究会では、「勿来関」は長久保赤水の創作造語だったと言っていたのを訂正されましたが、何故ですか。

(史料7)

長久保赤水の『東奥紀行』(一七九二年)の頭注欄に、「名古曽関 一作 勿来関又作莫越」とあります。

一作とは、工夫するという意味なので、赤水が工夫創作して勿来と莫越にしたものと捉えました。この頭注欄は、本を編纂した赤水の甥の中行の書き入れですが、小石川の水戸藩邸には、赤水もいたので指示を受けながら進めたのは当然のことです。(長久保片雲先生の話し)

ところがその後の調査で、『東奥紀行』よりおよそ百年も前に、同じ水戸藩内で医師で儒学者だった森尚謙が『儼塾集』(一七〇七年刊)の中で使っていることが分かったので訂正させていただきました。赤水の『大日本史地理志』にも出てきますが、『大日本史』の『地理志』は、赤水隠居後の作なので、今のところ森尚謙の『儼塾集』が「勿来関」の初見になります。(二〇二三年六月現在)

ここまで来ると、「勿来関」の考案者は、江戸彰考館の匂いがします。

『東奥紀行』の「一作」は、断定はできませんが、同じ江戸彰考館(特に水戸出身者)の先輩が工夫して作ったことを指すように思います。

これらからおわかり頂けると思いますが、「勿来関」はいわきにしかないのです。

(1) 承応二年(一六五三) 大阪天満出身、一六八四年水戸光圀の門に入り、江戸彰考館で『本紀列伝』の作成に当たるが、彰考館内の対立を受け、光国の隠居後一六九七年水戸に移り藩校としての『儼塾』を開きました。江戸彰考館に対し造られたものと思われますが、現在『儼塾』の名は聞こえません。水戸藩の修史事業の基を築き、やがて(総合大学)弘道館として発展しました(この項今後研究の余地あり。)

(2) 宝永四年(一七〇七)刊ですが、「勿来関」の部分は、一七〇二年頃になります。