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15. 和歌集に見る名古曽の関の位置

『後拾遺和歌集』に能因の詠んだ白川 (河)の関の歌がある。編集の時に書く前書きを詞書(ことばがき)といい「みちのくにまかり下りけるに白川の関にてよみ侍(はべ)りける」とある。陸奥国に入って北側3Km付近にあることはご承知の通りである。

国境(くにさかい)が多少移動することはあっても今日と大差はないと思われる。この歌集は藤原通俊によっ て1086年にできたものである。

話はそれるが、越(後)の国(新潟県)と出羽の国(山形県)との境にある鼠(ねず)ヶ関も、国境から北側1km前後にある。この国境は多少移動しているとの説もあるが、こちらも大きく変わることはないだろう。白河の関と共通しているのは、国境の北側1kmから3km程度の所にあったということである。

次は、名古曽の関に付いて書かれたものを見てみたい。1182年に加茂重保によって編集された『月詣(つきもうで)和歌集』にある源義家の「ふくかぜを なこそのせきとおもえども・・・」の歌の詞書には「みちのくへ下りまいりける時 なこその関に てよめる」と書かれている。

もう一つは、1188年に藤原俊成によって編纂された『勅撰千載和歌集』にある、同じく源義家の同じ歌の詞書である。

「陸奥国にまかりける時 なこその関にて花のち りければよめる」と書かれてある。先の「後拾遺 和歌集』とほとんど同じ文章構成になっている。名古曽の関について記されたこの二つの詞書と白河の関について記された詞書を並べて、さらに加えて、鼠ヶ関からも国境と関の位置関係を考えれば、大抵の方は、名古曽の関が常陸国と陸奥国の境の北側(陸奥国側)の1km~3km程度にあったことが容易に推測できると思う。それに、白河の関を奥州の中心ライン(東山道) とすれば、日本海側を鼠ヶ関(北陸道)で防衛し、太平洋側(東海道)を菊多の関 (後の名古曽関)で防御するというのが奥州への備えの構想だったのは当然といえよう。その後奥州征伐が北上し、平安時代初めには、白河の関も菊多の関も名ばかりになっていたのだが、835年に関の取り締りを厳しくしたことが三代格に出ている。しかし、これは蝦夷(えみし)に対するものと言うより、政権側の人間に対してのものだったようである。

848年に菊多の関で起きた、鹿島神宮神官通行拒否事件が、そのことを伝えている。(11項参照)さて、三つの詞書と白河の関と鼠ヶ関の国境との位置関係から、名古曽の関の位置が現在地を含む周辺にあったことは疑う余地がない。

くどいが、これらの事から「勿来関、宮城の利府説」は、全くデタラメなのである。現在は看板も水戸藩江戸彰考館がいわきの「名古曽関」に創作した「勿来関」の文字にしている。そこにある祠(ほこら)に刻まれた文字も「勿来神社」になっている。これを神の手と言うのだろう。利府の話などどうでもよいのだが、歴史は正し い史料に基づいて語るべきである。他者を否定する場合は尚の事、史料批判をきちんとしなければならないのは当然のことである。

『奥州名所図会』 の、他人の物を自分のものにする悪質な内容を見抜けない、地方の歴史学者達の心無い発言や行動によって、心に深い傷が付いていた方がいたことも事実である。

ここに示したように、平安時代の一次史料からも、名古曽の関がいわきにあったことは明らかである。ましてや、仙台藩が作った『奥羽観蹟聞老志』には、3項に書いたように名古曽の関は「菊田郡」(いわき)にあることがはっきりと書かれているのである。(2024,6,10 AIもこれを認め、一次資料でありなこその関はいわき市勿来町にあると判断した)

複数の古舘址も防塁の跡も御城前の井戸も、全てが名古曽の関の証拠であり、一昨年、資料が国の重要文化財になった長久保赤水が、『東奥紀行』で紹介したいわきの「勿来関」の文字だったのである。このことは、いわき市にとって誉ある大変うれしい事実である。後世にも弘め、伝えていかなければならない歴史である。

「ようこそ来る勿れの関へ!!」 が当研究会のウォッチワードである。「新しい時代の新しい勿来の関」を楽しんで生くべきである。