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16. 勿来関がいわきにある明確な文献がありますか。

(史料11)

平安時代の月詣和歌集と千載和歌集の詞書に陸奥の国に入ったところにあると述べられています。又、源師頼(みなもとのもろより)の歌に都からなこその関まで「廿日あまり」とあります。

鎌倉時代では、夫木抄の「あぶくまを いづれとひとにとひつれば なこそのせきのあなたなりけり」からも薄っすらとですがわかります。江戸時代になると飛鳥井雅宣の「九面(ここづら)や しお満ちくれば 道もなし ここをなこその関といふらん」(一六〇九年頃)の歌で、九面浜の近くになこその関があることが明らかです。一六五九年刊の『太平記大全』には、常陸の軍勢等が名古曽の関を越えて岩城に向かったことが記されていました。

「名古曽(ナコソ)ノ関打チ越エテ岩城郡(イワキノコオリ)ニ至ル」

ふりがなまで振られて明記されていました。「なこそ」をどのように書こうが、「なこその関」 は、いわきにしかないことを示す最も明確な証拠です。

その他、江戸時代だけでも五十以上の証拠文献があります。

一部の地方史家サークルの方達が、『奥州名所図会の史料批判をしなかったこと、千載和歌集や月詣和歌集の詞書、源師頼の「廿日あまり」の歌、両常陸国誌の明確な関跡の位置、奥羽観関聞老志が菊田所在を示していること、封内風土記に名古曽関がないこと。太平記大全に常陸の軍勢が名古曽の関を越えて岩城郡に至るとあること、儼塾集、常陸帯、長久保赤水の東奥紀行もいわきに名古曽関があることを当然としていること。又、常陸国の関本村と菊田の窪田村の国境訴訟で、江戸幕府が名古曽の関がいわき側にあることを公に認めていること(裁許書)。一六〇九年頃の飛鳥井雅宣の九面の和歌を重く見なかったこと』等々、詰めをしないで利府説に傾注したようです。

当研究会のホームページの図書館をご覧ください。これらの証拠文献を紹介しています。