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13. 内藤平藩主が勝手に勿来関を現在地に比定したというのは間違い
勿来関がいわきにあることを否定する論者が共通して言うことに、政治を顧みないで和歌や俳諧にうつつを抜かしていた内藤平藩主が和歌に見合った場所を領内に求め(勝手に)現在地に比定したのだとのことがある。だからそもそも、いわき勿来関などないのだというのである。人の弱点をうまく利用した理屈だが、もしこれが間違っていたなら勿来関がいわきを出て宮城に歩いて行くことはなくなる。
内藤藩主とは、内藤三代目の義概である。彼が現在地(付近)を関跡と定め、関明神を設置したのは1682年である。あるいは、遡って内藤家が平藩に入府した1622年を執ったとしても、それ以前に平藩関係者以外で名古曽の関が現在地近辺としている者がいれば、内藤藩主が勝手に云々の話が間違っていることが立証されるのである。
江戸時代になって間もなくの1609年に飛鳥井雅宣が九面(ここづら)の歌を詠んでいる。九面は、現関跡の東側に隣接する小さな漁村で、江戸時代に作られた切通しの関がある。「ここづらや 潮満ちくれば道もなしここをなこその関といふらん」との歌である。一つの歌の中に九面となこその関が出てくるので、九面がなこその関だと聞いていたことになる。これは切通しになる前の隧道のさらにその前の、山の頂上を削った程度の頃の新道を詠ったものである。 ちなみに飛鳥井家は代々和歌を生業とする家系であり累代に渡って「なこその関」を詠んでいる。その若き末孫が現地で「なこその関」を歌ったのである。これは内藤家入府の前のことであり、内藤藩主勝手に比定説が誤りであることを確にするものである。
これに対し、いわきの利府説論者の言い分は、飛鳥井氏が勝手に名古曽関を九面に比定したのだという。そういう反論もあるのかと呆れているところに次の発見があった。
1659年に出版された『太平記大全』には、南北朝期、常陸等の軍勢三万騎が「名古曽の関打ち越えて岩城郡に至る」とはっきり出ている。軍記なので割引いて読むべきだろうが地理については信じられると思う。 この書も平藩主が現在地を比定する前あるいは名古曽関が出て来る『磐城風土記』前のことである。また1662年、俳人の西山宗因が松島への途次、「陸奥のなこその関を越えて」と記している。(宗因奥州紀行)
さらに1667年、隣国水戸の黄門様が小宅生順に命じてできた 『古今類聚常陸国誌』がある。その中の「通関」の項に 「陸奥常陸両国界也、歌書に謂われる所の那古曾の関」と書かれてある。厳密には、切通し関は江戸時代のものなので平安に詠われた関ではないが、これからも名古曽の関がいわきから離れるものではないことと平藩主比定の前であることがわかる。内藤義概は和歌俳諧に関しては、鋭い感性を持っていたようである。関跡を推定できる付近で海の見える風光明媚な場所に関明神の石を立てたのだろう。当研究会では、東は九面の海から西は出蔵山玉の全山と酒井、郡 (平安の役所跡)を含む地域を菊田 (多) 関 (=名古曽関= 勿来関)と考えている。
その中で小野小町の「みるめ刈る海女の行きの湊路(みなとじ)に名古曽の関も・・・」 (原書はおそらくひらがな) のような歌に似合った風光明媚な現在地(付近)をキーパーソンとして肯定するものである。
すなわち、厳密な関跡は不明だが、 多くの文献史料から判断し、勿来の山と周辺を出るものではないのは確かであり、平藩主が関明神を置いたのも伝承や古道、和歌と風景などから熟慮したものと理解できる。
宮城にあったものを持って来たなどとうそぶく者もいるが全くでたらめであることが分かる。