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13. 菊多(田)関から「なこその関」に呼び方が変わったのはどうしてですか。
(史料6)
有力な裏付けとして、八四八年の鹿島神宮神官通行拒否事件があります。これは、隣国常陸国(ひたちのくに)鹿島社の神官が、陸奥国の分社に行こうとして関守に拒否されたことを指します。官位ある神社の神官が通行を許されなかったユニークなこの事件は、朝廷への訴えによって広く都人の知るところとなったのでしょう。「越え難き関」として、和歌に登場するのに時間は掛りませんでした。
この話が載っているのは『類聚三代格』と『三代実録』ですが、実は共に関の名が書かれていません。しかし、記事の前文に、陸奥国の鹿島神社の分社名が出ていて、その順番からすると菊多の関になります。
以上から分かる通り、菊多(田)関は正式名称なので公文書に出てきますが、名古曽の関は遊び心の世界の呼称です。
したがって菊多の関と名古曽の関は、同体異名なのです。そして、やがて江戸時代になると、名古曽関や勿来関が市民権を得て、公文書にも登場するようになります。仙台藩で作った『奥羽観関聞老志』には、奈古曽・名古曽関として、菊田郡の中で詳述されています。そして、明治以降には、駅名や地名にもなりました。
神官通行拒否事件から「なこそ」が生まれた訳については、先の「なこその意味」の項をご覧ください。