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12. 菊多(田)の関と名古曽の関は、同じ場所ですか。又その範囲はどのくらいですか。
(史料6)
時代によって、又設置目的や、交通手段等によって通行する道も変わります。又広義では、郡役所や出先機関(古舘など)も関といえます。 群馬県の彦部家系譜によれば、「康和4年(1102年)に先祖である義家の四男が陸奥国菊多郡の検断職(けんだんしき)となって勿来関を修理した旨記されています。勿来の文字を使っているので、古いものではないようですが、検断職が関を修理したというのは、山の上の関だけの話ではなく、役所や寺院、さらにこの地域全体を指しています。発掘調査がされていないので、厳密な位置や規模はわかりませんが、共に勿来の地を出るものではありません。
当研究会は、鈴鹿の関などを参考に、東は九面(ここづら)の浜や御城前(みじょうまえ)館跡から西は出蔵(いでくら)の山までの数キロメートルと酒井の駅家と思われる付近、大高(おおだか)・郡(こおり)の役所址付近を含む広範囲を菊多・勿来関と考えております。すなわち防御、取締り、検断所を含んで捉えております。