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10. 勿来関はどこにあったのですか。

(史料1、史料4、史料10、史料11)

①『御拾遺(ごしゅうい)和歌集』(一〇八六年)に能因(のういん)の詠んだ白河の関の歌があり、その詞書(ことばがき)に「みちのくに まかり下りけるに 白川の関にて よみ侍(はべ)りける」と書かれてあります。

②『月詣(つきもうで)和歌集』(一一八二年)の源義家の歌の詞書には「みちのくへ 下りまいりけるとき なこその関にてよめる」とあります。また、

③『千載(せんざい)和歌集』(一一八八年)にもやはり源義家の歌の詞書に「陸奥国にまかりける時 なこその関にてはなのちりければよめる」と記されています。

これらの詞書を並べてみると、なこその関も白河の関と同じく陸奥の国に入ったところにあったことが明確だと思います。又、奥州三関(さんげん)と言われる鼠ヶ関(ねずがせき)も出羽の国に入ったところにあります。

それから、一一〇四年頃の源師頼(もろより)の歌に「立別れ 廿日あまりに成りにけり けふや名社の 関や越らん」 (清流庵蔵本による)という歌があります。京都から勿来までの平均歩測でピッタリになります。

その他、鎌倉時代の『夫木(ふぼく)抄』に詠み人知らずの歌で「あぶくまを いづれとひとに とひつれは なこそのせきの あなたなりけり」なども面白いと思います。又、弘仁格抄や類聚三代格により菊多の関がこの地以外にないので、それが「なこそのせき」として詠われたことからも、勿来の関がこの地を出るものではありません。

能因歌枕集で遠江(とおみ)の国の部分に「なこその関」の書き込みがあります。これについては、推測するだけで何もわかっていません。伝承もなく地元でもわからなかったのですが、最近どこかになこその関を作りたいとの話しもあるようです。