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奥羽観跡聞老志

奥羽観跡聞老志おううかんせきもんろうし

この書に、なこその関を詠った平安の和歌がいくつも紹介されている。その全ての歌が、いわきの奈古曽の関を詠ったものとして記されている。

 伊達(仙台)藩主の命で作られたのがこの著である。 奈古曾関は、この著の「菊田郡」の中で、実に詳細に紙数を使って説明されている。本著は 一次史料である。

「立別れ二十日あまりになりけり けふ(今日)やなこその関をこゆらん」

平安末期の1104年頃、源師頼が詠んだ和歌で「堀川院百首」に収められている。

都から「なこその関」までの距離を一般人の平均歩測で割ると符合している。

「九面や 浪打ちよせて道もなし ここをなこそのせきといふらん」

この歌の作者が西行法師になっていますが、西行の歌にはないようです。

似た歌で飛鳥井雅宣の歌があります。

「九面や潮満ちくれば道もなし ここをなこそのせきといふらん」

江戸時代になったばかりの1609年頃のものですが、当地方では有名な歌です。この歌と混同したように思えます。九面にあった関は、切通しの関のことで江戸時代初頭にできた新道です。西行の時代は旧道(ほぼ現在地)にあったと思われます。

菊田郡の奈古曾関とは、いわきの現在地である。

 名古曾関が利府にあったのなら、何故この書で菊田郡の中に出てくるのか。

答えは簡単である。

奈(名)古曾関は、元々利府にはなく、いわきにしかなかったからである。

 この著の奈古曾の説明の後に、平安の詠がいくつも紹介されている。

 全ての歌が、いわきの奈古曾関を歌ったものとして記されている。

2024年6月、本著を史料として「なこその関」の所在地をAI(人口知能)に尋ねたてみました。「詳細に調査したところ「なこその関」は、いわき市勿来町にありました。師頼の20日あまりの歌からもわかります」旨の回答が返ってきました。

表紙 当会所蔵は、ミシガン大学図書館の蔵印のあるニ十冊全巻である。