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史料倉庫

勿来関=菊田関を立証できる事項

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No,和暦西暦依書名等内容等コメント
1康和年間1104年頃堀河院百首源師頼の
「立別れ廿日あまりに成りにけり けふや名社乃関や(を)越らむ」
東海道五十三次は十四日。江戸から勿来まで六日半。
計廿日半日。
当時の一般人の平均歩測で計算すると利府ではない。
2寿永元年1182年月詣和歌集源義家の歌の詞書きに
「みちのくへくたりまいりけるときなこそのせきにてよめる」
とある。
能因の白河歌詞書と比較すると、
なこそのせきは、陸奥の入口にある。
3文治四年1188年勅撰千載和歌集源義家の歌の詞書きに
「陸奥国に まかりける時 なこその関にて花のちりければよめる」
とある。
能因の白河歌詞書と比較すると、
なこそのせきは、陸奥の入口にある。
4嘉禎元年1235年新勅撰集西行法師
「あづま路や しのぶの里に休らひて なこその関を越えぞわづらふ」
「しのぶの恋」の歌合せで詠まれたもので、
「しのぶの里」は場所ではない。(桐原氏)
5慶長年中1596年〜1615年古今類聚常陸國誌 中にある斫通関・・・菊多郡界・・・
歌書所謂那古曾乃関・・・
斫通関は江戸時代直前着工の新道で、
山上には歌に詠われた関趾があるという。
そこが旧道だという。
古今類聚常陸国誌にある話だが、
内容は江戸時代前からのものであるこどわかる。
斫通関完成
6慶長十四年頃1609年頃飛鳥井雅宣の和歌「九面や潮満ちくれば道もなし
此処をなこその関といふらん」
この歌は、九面の渡辺宅で詠んだものと伝えられている。
新道の斫通関を「なこその関」と詠んでいる。
「いふらん」と結ばれているので、
歌人はここがなこその関であることを聞いていたことになる。
一先生の本書に『東遊雑記』とあるが、原書にみあたらない。
7万治二年1659年太平記大全「名古曽ノ関打ち越えて岩城郡に至る」
と明確にありました。
この書の8年後にできた「古今類聚常陸国誌」に
この部分が紹介されていた。
間違いないことを原書で確認した。
内容は戦国期のものである。
当研究会所蔵は将軍綱吉が舘林家を名乗った時の物である。
「名古曽の関」が広く知られていたことがわかる。
8寛文二年1662年宗因奥州紀行磐城を訪れる際に、平藩主に送る 
「陸奥のなこその関を越えて」

「関はあれど 花になこその 御意はなし」
「太平記大全」により、
「なこその関」が陸奥の国の入口にあることは、
広知られていたことがわかる。 
歌人の西山宗因も当然そのことを知っていたことが、
素読めばこの手紙でも分かる。
宗因が平藩主から聞いて知っていたとするのは、
考え過ぎと言える。
9寛文七年1667年古今類聚常陸国誌水戸黄門、小宅生順に命じ完成する
城北菊多郡界 、即陸奥常陸両國界也、
或曰歌書所 謂那古曾関、即是関也
5番と同じ。その他水戸藩作成の古地図にも
「なこその関」の文字あり。
10延宝二年1674年枕草子写本枕草子春曙抄・北村季吟
(能因本系統本末流本)
傍注に、よしなよしなのせきを
「陸奥の奈古曽の関の一名ときこえたり」
と記す。
訳者はくきたの関を菊田の関と勘違いしている。
又きくたの関と名古曽の関を別の物と捉えているが、
名古曽の関の所在は不明。 
傍注に、よしなよしなのせきを
「陸奥の奈古曽の関の一名ときこえたり」と記す。 
よって、原書には、菊田の関はない。
「よしなよしなの関・・・それをなこその関といふにやあらん」
とあるのみ。
11天和二年1682年藩主内藤義概が、
関跡と定めた地に関明神を置く
上記から平藩主が、
根拠もなく関跡と定めたのではないことがわかる。
12宝永七年1710年国境論争裁許状勘定奉行、町奉行、寺社奉行計11名の連署押印がある。
重要公文書。
文中に「名古曽之関」が出てくる。
国の最高機関の重要公文書に名古曽の関が
現在地として記されている。
13享保四年1719年奥羽観跡聞老志第四代伊達藩主綱村、
佐久間義和に作らせる。
「菊田郡 奈古曾関 常陸陸奥那疆(くにさかい)・・・」
名古曽の関あるいは
勿来関が利府になかった明確な文献である。
地元の藩主が作らせた本なのに
奈古曾の関が伊達領内でなく、
菊田郡の中に詳述されているのは何故か。
利府説論者は、この事実を謙虚に受け止めてほしい。
14寛保四年1741年封内名跡志伊達藩主の命で伊達領内の名跡
をまとめさせたもの。
和歌に詠われた名古曽の関ほどのものが自領内にあれば、
この書に書かないはずはない。
何故ないのか。
15宝暦十三年頃1763年頃本多忠籌侯伝泉藩主本多忠籌名古曾の関の歌をうたう。
      2021,7,29 櫛田一男元市長よりTELで
「惜しむべし名古曾の桜青過(ぎ)ぬ」
16安永年間1772年〜1781年封内風土記伊達藩主、封内風土記を書き換えさせた。自領にあるのは「想の関」となっている。
これほどの書のどこにも「名古曽の関」はでていない。
17寛政四年1792年東奥紀行長久保赤水の甥の中行が完成させる。
「名古曽関 一作 勿来 又作 莫越」とあり、
「勿来」は赤水の創作造語とわかる。
よって、万葉の歌の原書に「勿来」はないことがわかる。
又浪越でも「な・・来そ」でも ないことがわかる。
「勿来関」は赤水が、
いわきの関に付けた創作造語であることがわかった。
18文政年間1804年〜1829年奥州名所図絵利府説の依書、利府説の初見。 
宮城の八幡宮神官が作る。 
「想の関」を「奈古曽関」とし、
源将軍の歌に「勿来関」の漢字を使用している。
何故この図会以前に利府に名古曽関も勿来関もないのか。
書中に「久那土神が来勿度神だと神書にある」
旨記述されている 
それが本当なら脱帽だが・・・・
嘘なら利府説は不成立。
赤水の「東奥紀行」の引用文があり、
各所に赤水の名が出てくる。
「想の関」が「奈古曽関」だと言う。
源八幡将軍の歌に
「勿来関」の漢字を盗み
自社八幡宮のものとしたかったのだろう。
いわば、御当地の観光案内パンフレットともいえる。
「勿来」は赤水の一工夫によって
菊田のなこその関に付けられた
創作造語である。
上記資料をPDFでダウンロードする

「江戸期の名古曽関=いわきを立証できる史料」

江戸幕府の『裁許書』