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6. 勿来切通の関を歩く
五月晴れを狙って、メンバーと久しぶりで勿来切通の関と現関跡などを巡った。
始めに、私どもに「勿来関」探求のきっかけを作ってくださった佐藤一先生のお墓に挨拶に行った。メンバーの誰も先生とお会いしたことはなかったが一書を通して全人格を身近に感じていた。
先生の書には、 当地方に出土している遺跡や万葉から現代に至るまでの数多くの和歌、随筆、物語、その他、源義家に関する伝説まで限られた紙数の中に多彩に収録されている。それだけに史料的価値も高いと見ている。
ただし、勿来関関係書物のどれもそうなのだが、「勿来」が江戸時代に水戸藩の彰考館によって一作されたことは知らなかった。 (公になったのは、赤水の『東奥紀行』刊行後になる)
それどころか、ほとんどの方が万葉の和歌まで「勿来」に替えてしまっている。しかし、古書には「勿来」 の文字は一個もない。
「蝦夷(えみし)よ来る勿れ」を意味する平安の和歌は一つも無かったのだ。
「名古曽」を「勿来」に替え、「蝦夷よ来る切れ」と結びつけたのが間違っていたのだ。元々の名古曽は、蝦夷よ来る勿れではなくその多くは難き恋を詠っている。
江戸時代は、浜街道として旅や参勤交代、商いにと多くの人々に寄与した。以前は、ここから海が望めたが、樹木が大きくなっていて全く見えないのが残念だ。見る景色は、長旅の人々をさぞや癒したことだろう。一先生に手を合わせてから、切通の関に行った。どこもかしこも草がぼうぼうで歩くのも大変だった。切通の部分は北茨城側のはずだが、案内板はいわき市で建てたようだ。近くで散在しているガラクタを二人の親父が片付けていたので、切通の関の価値を話した。翌日もう一度行ってその二人に当研究会の本をあげたら、長久保片雲先生の名を見て大変喜んでくれた。奥さんの元担任で今でも賀状のやり取りをしているとのことだった。
これほどの歴史ある切通関が現存しているのに、北茨城もいわきも何をしていたのかと思った。
次に、古関跡を歩いた。
現住所は、長沢で明治当初の字切図でも官有地になっているので、江戸時代は平藩のものだったことが伺える。ここを関山と言っていないのは、ここは古関址ではないということか。それにしても、かつての海を見渡す景気が殆どない。平藩主が関跡をここに比定したのは、景色が良かったからだろう。人に喜んでいただけるように、伐採整備すべきと思う。国体主義者の田中智学の碑があるのは残念だ。まして、義家の遠孫とあったが疑問がある官地で県立公園なのにお宮があるのも時代遅れだ。万葉和歌の碑も 「勿来」の文字になっている。やがては古書通りに直すべきと思う。
ただし、当然だが長久保赤水以後成立の物については、この限りではない。
続いて、平潟洞門の碑に向かった。福島県と茨城県の県境にあった洞門を切通にして現在も使われている。そこに赤水撰の碑が建っている。赤水の史料が一昨年国の重要文化財になったが、その中に「勿来」の古いものがあるのではないかと関係機関に尋ねたが、そのような史料は無いという。関係個人の元にあるのかと聞いたのだが今のところは見たことがないという。東北、新潟方面を旅行した時の日誌などがあればおもしろいのだ。
この平潟洞門(現在の切通のは後年の施工)も先の勿来切通も人力のみで削ったものだ。しかも、当初は富裕の商が自腹で斫ったという。先人たちの偉業に敬意を表したい。