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14. いわき市議会議事録に見る勿来関
かつて、市議会の一般質問で勿来関に関する質疑応答があった。かなり長いので一部になるがご紹介させていただく。
平成18年(2006)2月定例会 (3月3日)、蛭田源治市議の質問と各者の答弁内容である。
「勿来関は、皆さんご存知のように、奥州三古 関の1つとして、 奈良時代の8世紀に蝦夷の南下を防ぐ目的で造られたました。その後、平安時代になってからは、朝廷の勢力圏がはるか北方に広がったため必要がなくなり、名のみの関になったようです。
現在は風光明媚な桜の名所として有名ですが、勿来関が時を経て今の世まで残ったのは、和歌の歌枕として詠まれたからだと言われております。歌枕とは和歌に詠まれる名所のことでありますが、平安時代は和歌が盛んな時代、勿来という言葉は当時の語法によると、来るなかれ、来ないでほしい、来ないでおくれ、という意味だそうです。こんなことから、人も道も季節も、そして恋をも妨げる意味の歌枕として多くの歌に詠まれたということです。 この勿来の関としての歌枕が当時一躍有名になったのは、あの美人で名高い小野小町の、
みるめ刈る 海人のゆききの 湊路に なこその関も わが据(すえ)なくに
という歌で、これが大いに影響したようです。
また平安の歌人で、古今和歌集を編纂したり、土佐日記を著した紀貫之の、惜しめどもとまりもあへずいく春をなこその山の関もとめなむという大変格調高い歌が夫木和歌抄に載っています。
また、恋の歌では、玉葉和歌集の中に和泉式部の、
なこそとは たれかは いいし いわねども 心に据ふる 関とこそみれ
というのがあります。当時は、当地へ来ることができないので、勿来の関の様子を聞いたりしながら想像し詠んだようです。しかし、実際にここを通り、勿来の関の知名度を全国的に高めたのは八幡太郎 源義家ではないかと思います。
源義家は源氏の棟梁で、天下第一の武勇の士と称賛された平安時代の武将で、 文才も豊かで和歌を詠み、文武両道に秀でた、いわば当時の スーパースターだったわけですが、その源義家は、今を遡る事920年、今年市制施行40周年を迎えるここいわき市も、まだ陸奥の国に統合されていたころ、奥州での後三年の役の戦いが終わり、京に引き揚げる際に勿来の関を通り、見事な桜の下で、
吹く風を なこその関 と思へども道もせに散る 山桜かな
と詠んだと言われています。 この情景は、半七捕物帳な どで有名な歌舞伎作家、岡本綺堂氏が史劇勿 来の関の題で作品を残し、そしてこの劇は、地元の小学校では以前、学芸会の6年生の劇として毎年繰り返し演じられたということです。また最近では、平成5年に当時の勿来青年会議所が、一般市民からキャストやスタッフを募集し、地域おこしの市民劇として勿来市民会館で上演し、大変好評を得たことも記憶に新しいことであります。 源義家のこの和歌は千載和歌集に載っていますが、千載和歌集に載っているのはほとんど公家か歌人の歌であって、 武士の歌は数少ないのです。そこにある ということは、いかに源義家とこの歌がすぐれ ていたかがわかるかと思われます。
このように、勿来の関を歌枕として詠んだ和歌は、有名な和歌集に載っているだけでも50首もあり、記録に残らない歌まで入れると、いかにここが歌枕として詠まれていたか想像できるかと思われます。また、古い歌ばかりでなく、最近では斎藤茂吉が大正4年に勿来の関を訪れ、
みちのくの勿来へ入らむ山がひに梅干しふ む あれと阿がつま
と詠んでいます。 現在でもここを訪れ、歌を詠んでいかれる方が多くいることも紹介させていただきます。
さて、私は勿来で生まれ、そして育ったことから、勿来の関公園へは幼少のころから訪れ、また小学校での遠足や、あるいは県外からの友人の案内と、現在までいろいろな機会に数多く足を運んでおります。私にとって、地元を誇って案内できる自慢の場所です。
そして最近では、行くたびにいろいろな形で整備され、これからの自然環境と景観が生かされた魅力ある公園になってきていて大変嬉しく思っているところです。・・・・・中略・・・
今の答弁を聞いておりますと、古くから東北の玄関と言われ続けてきた勿来の関が、ますます すぐれた歴史文化や自然環境が生かされた公園になってくると思うところでありますが…
都市建設部長答弁 勿来の関は、古くから白河の関や念珠ヶ関と並び奥州三古関と呼ばれて、歌枕の地として、これまで数多くの歌が詠まれていることを踏まえ、和歌の普及がすすみ、勿来の関を詠んだ歌が多く残る平安時代をイメ ージし、当時の歌人が暮らしたであろう寝殿造の住まい様式等をモチーフとして、体験学習施設を計画したものであります。・・・中略・・・
蛭田源治市議 勿来関文学歴史資料館には2つの展示場がありますが…勿来の関にある文学歴史館なのに、 来館者はこれに関連する歴史物や文学物とか資料などがあるのかなと思って来るようでありますが、そうではなくて期待しているものとは違っているようであります。
櫛田市長答弁 勿来の関は、古くから東北の 三古関の一つでございますし、途中からは、その目的が歌枕の関という風に、歌人のあこがれの地になったわけであります。・・・中略・・・
あそこの関はいろいろ場所が変わったといわれておりますけれども、一時期は九面(ここづら)の下を通っておりました。それで、九面や潮満ちくれば道もなしここをなこその関といふらんという飛鳥井の少将が詠った歌がございます。勿来の海水浴場のあたりを通ったわけであります。・・・・中略・・
蛭田源治市議 いろいろな構想が、夢が膨らんでくるかなと思います。 勿来の関公園は自然環境や景観のすばらしいところでありまして、有数の桜の名所でもあります。今日は3月3日、桜の節句ではありますが、来月は4月、桜の咲く季節です。勿来の関公園は1年で一番美しい時期を迎えます。どうかたくさんの観光客が訪れ、桜花爛漫の中で歌の1つ、2つを詠んでいただけるようお願い申し上げまして、次の・・・・(以下略)」
その後、勿来関利府説なるものが台頭し、いわき市の勿来の関の話は長らくタブーになった。
先の質問者の蛭田源治市議は、現在当勿来関研究会の最高相談役であり、答弁者の櫛田元市長は、名誉顧問であったが先日突然の訃報を受けた。茫然自失。ご冥福を祈るのみである。
櫛田名誉顧問の思い出は、項を改めて残したい。ともかく、当研究会にとって大事なお二人の、市議会における質問と答弁の一端を御紹介した。
(文責 清流)