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4. 『奥州名所図会』と利府説を考える

『奥州名所図会』には「菊田と利府のどちらが正しいか後の考を待つ」と書かれてあります。

併存でなく、択一をもくろんでいます。また、近年の論者もいわきを否定して利府を選択しています。 言うまでもなく史論は、考古学や文献等の新資料の発見によっては真逆の結論になることがあります。 しかし、この著に関しては、それ以前の問題があります。次下に問題のいくつかを提示します。

既論者は、『奥州名所図会』について、当研究会のような史料批判をしていないようです。

①「神書に曰く」以下の文を記紀で確認していない。

神書が記紀以外ならわからないが、記紀には「久那土神(くなどじん)が来勿度神(くなどじん)で勿来に縁している」 (要略)と本当は書いてない。また、「勿来」は赤水の創作造語を盗作したもの。

② 千載集の原書又は古い写本を確認していない。

八幡将軍の歌に「吹風越勿来関」と、古書には書いてない。また、「勿来」は江戸彰考館の創作造語を盗作したもの。

③「前太平記」の原書を確認していない。

「総関通奥海道、すなわち名古曽関なり」と、原書には書いてない。

④伊達藩主が作った『仙台名所和歌集』を確認していない。

報徳年間に邦内の万葉和歌の比定地にあてはまるような和歌を集めて、一書にしたのだが 『仙台名所和歌集』に八幡将軍の「吹風落花」の歌はない。

以上からもわかるようにこの書にはいくつもの虚偽があります。

ブラックユーモアと一笑することもできますが、いわきの存在を否定して成り立っているので看過できないと筆を執ったものです。

残念ながら嘘でも200年もすると既成事実化して引っ掛かる人が出る。作者は、いわば「後の考証」になると考えていました。「勿来」 は江戸彰考館がいわきの名古會の関に一工夫して付けた 造語だったことと、『太平記大全』に常陸等の軍勢三万騎が名古曾の関打ち越えて岩城郡に至る」 との一節があることは、動かしようのない事実です。

当研究会がホームページに提示している数々の史料を見てご検討ください。

「勿来」や「蝦夷よ来る勿れ」の表記が平安の昔からあったように考えてしまったことが重大な過ちだったのです。

平安の和歌や随筆の原書あるいは古い写本を見ても「勿来」の文字はありません。また和歌の中にも 「蝦夷よ来る勿れ」や蝦夷との争いを意味するものは見当たりません。

江戸彰考館の「一作」によって名古曽関が勿来関になり近年、「蝦夷よ来る勿れ」 と誰かが言い始めたのが、過ちの始めだっのです。そこに『奥州名所図会』の「勿来関」を見つけたので、府の近くにある利府の地こそ「蝦夷よ来る勿れ」にふさわしい、これは大発見だと小躍りして、河北新報やいわき民報に載せ、チラシも撒いたのです。

ところが当研究会が『東奥紀行』の「一作」を見つけ遡って「勿来」と書かれているものを再点検すると、『奥州名所図会』を含む明治以降の文献のほとんどが間違っていることがわかったのです。

簡単に言えば、江戸彰考館以前の「勿来」 の表記はあり得ないこと。また赤水以後の「勿来」の表記は赤水から始まること。

その視点から見ると、 利府説には正しい依書がないことになります。

『奥州名所図会』に義家の歌を想(総)関で詠ったとあるのですが、他の文献にはありません。

『月詣和歌集』 や 『勅撰和歌集』 の落桜花と、『後拾遺和歌集』の能因の白川の歌の詞書(ことばがき)を比較検討すると、名古曽関が常陸国と陸奥国の境の北側付近にあることは、明確です。

名古曽関が本当に利府にあったのなら『図会』の中で「後の考を待つ必要はなく、直ちに「ここに ある」と真剣に言えばよかったではありませんか。

策士が自分の墓穴を掘っていたのです。『図会』の著者の八幡宮の神官は、この書の「壺の石」の項でも個性的な見解を述べ、本当の壺石は陸奥 (青森)の方だと先に『東奥紀行』で述べた赤水を痛烈な言葉で非難しています。

それに対し青森南部藩の調査者は、他人の物を自分の物にする「仙台癖」との報告書をまとめています。同様の事が「勿来関」の項でも行われているのです。

この書は当時流行の旅のための、いわば観光案内パンフレットです。 いかにも真実のように思わせ、人を引き付け、売れるならよしとし、多少の嘘も許されるとの神官にあるまじき考えを持っていたように見えてきます。あるいは、地域文化顕彰のための彼の悪智慧だったのかもしれません。ともかく、このような悪書で歴史の真実を語るべきではないと思います。

『奥州名所図会』がなかったら、利府説が出てきたでしょうか。

「蝦夷よ来る勿れ」からの疑問は生じたでしょうが、いわき説を捨てるほどの確信には至らなかったでしょう。

何度も繰り返しになりますが、「東奥紀行』の「名古曽関 一作 勿来 又作 莫越」を冷静に謙虚に思索すべきです。平安の昔には「来る勿れ」の「勿来関」はどこにもなかったのです。

では「利府にあったのは名古曽関」だったのならいいじゃないかというかもしれませんが、伊達藩がまとめた『奥羽観蹟聞老志』の中で。「名(奈)古曽関」が菊田郡にあると記されているのですから、利府(伊達藩領内)に「名古曽関」はないことは明らかです。(2024,6,10 AIも奥羽観蹟聞老志を認めなこその関はいわき市勿来町にあったとしました。)