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28.ウィキペディアで「勿来関」を検索すると、①所在地が諸説ある ②存在自体を疑う説もあるなどの説明文がありますがいかがでしょうか。

ウィキペディアの担当者が書いたものに対し、読者の書き込み依頼があり、さらに検討を加えて公表しているようです。

身元がきちんとした人の書き込みで、説得力を持っている場合は、原文が修正されるようです。

右の問題点について、お応えします。

① 所在地が諸説出てきたのは、利府説が出てきてからで最近のことです。水戸藩では、一貫していわき市の現在地を詳述し比定しています。かの文豪で歴史学者の幸田露伴でさえ「利府説は取るに足りない」と一笑に付しています。(『うつしえ』)『奥州名所図会』がフィクションであることを見抜いていたようです。又、国境訴訟に対する江戸幕府の裁許書を見れば、関跡がどこにあったのか明らかです。この裁許書は、畳三枚ほどの大きさで表に判決文があり、老中と十名の奉行の署名押印、裏面には色絵地図が描かれています。この判決文に「名古曽」が窪田藩(いわき市勿来)のものとして、書かれています。江戸時代に、日本国家として名古曽関がいわき市にあることを認めているわけです。

② 律令体制下の格や律あるいは六国史などの公文書に「勿来関」の名がないので、その存在自体を疑っているようです。名古曽関は、和歌等の遊び心の世界で創られた名称です。従って元々公の名称ではありません。紫式部は名古曽の関を遊び心で「よしなよしなの関」とも呼んでいます。公文書では菊多の関になります。平安時代の和歌集の詞書などからも実在は分かると思います。幾度かの発掘調査で愛発の関が見つからなくても、その存在を否定する人はいません。勿来関も同じですが、こちらは、江戸時代初頭に新道として造られた名古曽切通関が、今でも威容を残しています。そして、その西側の山の上の旧道に古関の跡があると『新編常陸国誌』は、その存在を記しています。江戸幕府の最高機関でさえ裁許書で「名古曽の関」址が、いわきにあることを認めているのです。