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27.利府説では、「なこそのせき」と言われていたのが音便化して「そ」だけになり、「そう」の関となったとか、「そう」とはアイヌ語だとか言っているようですが。

一七八一年に仙台藩で作った『封内風土記』に、それまで「左右の関」だったのを「想関」の文字に直して出てきます。利府の「なこその関」などどこにも出てきません。

「なこそ」がいつの間にか音便化し、「そ」だけが残り「そうの関」になったのだと言っていた学者がいましたが、これも立派な学説なのでしょう。

これらを少し整理して考えてみます。「そう」のアイヌ語説もあるようですが、地元でアイヌ語の「そう」と言われていた関を平安時代に都でなぜか「なこそ」と歌に詠い、それが利府に帰って来て広まったが、いつしか音便化し、又元の「そう」に戻ってしまったのだ、だから元々は、利府こそ「なこその関」なのだということでしょうか。すると 「なこそ」の原型がアイヌ語の「そう」ということでしょうか。

大沢の池の名古曽滝の 「なこそ」や橋本市の名古曽城跡の「なこそ」もアイヌ語からきたことになるのでしょうか。

京都市の文化財担当者に電話で確認したのですが、藤原公任の歌の「名こそ流れて」から付けられたようだと話していました。

出だしが間違っていると、その間違いをカバーするため、また間違いを起こす。かつての神の手と似ています。

利府では最近「なこその関研究会」なるものを作りホームページを立ち上げたようですが、利府になこその関があったという証拠を提示する社会的責任があります。

「そうの関」の呼称についても一貫性がなく矛盾ばかりです。かつていわきの郷土史関係者達が利府説を煽り看板まで立てさせたよし耳にするが利府説の皆さんの勇気ある真摯な決断を望むものです。