since 2021

Welcome to our site

21.勿来関は北茨城だったという人がいますが。

(史料5、史料6、史料7、史料9、史料10)

隣国、常陸の国の領主だった水戸黄門でさえ勿来関跡が福島県側の現在地だとしています。

水戸藩の『古今類聚常陸国誌(こきんるいじゅひたちのこくし)』や『新編常陸国誌』、それに高萩出身の地理学者の長久保赤水も福島県側としています。また、江戸時代の国境訴訟の判決書でも福島県側に書かれています。

この説は、時々息を吹き返したように出て来ることがあります。

最近再び、街道の位置や地形から北茨城説を言っているようですが、何ら文献的史料もありません。その前に自国の長久保赤水などの先輩たちの偉大な足跡を学ぶべきです。厳(儼)塾集、ひたち帯を始め先の二冊や領主だった水戸黄門や水戸地理学の名古曽関に対する考え方などを否定できるでしょうか。覆すだけの史料があるでしょうか。

当研究会の心の師、佐藤一先生も著の中で、「論拠のつじつまが会わない。現関跡に花碑がないのを嘆き、今の顕彰の碑を建てたのは、茨城の人である。地域を越えた郷土人としての先覚者である」(本二三三頁)と話されています。

ただし、江戸時代に造られた名古曽切通しの関の大半は北茨城に入っていることは間違いありません。