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9. 長久保片雲先生

当研究会のペンネームは清流会と言い、代表のペンネームを清流と言う。事務所の名前は清流庵と名付けている。名付け親が片雲先生である。御年九十一、未だに大志一書刊行への日々である。

戦争で実兄を亡くされ、価値観の転換を余儀なくされた戦後が青春真っただ中の時期だった。縁筋に当たる赤水の人物を知れば知るほど 尊敬の念と同族の誇りが涌出したのだろう。赤水(せきすい)の天性の洞察力が先生にも備わっているように思える。真偽を見抜く力だ。穏やかな眼差しの奥に人の生涯をも見抜く、しかも、揺るぎない温かき慈愛をいつも感ずる。

もったいなくも「清流」と賜ったが名に恥じぬ生涯を生きるつもりでいる。赤水顕彰会の元会長で今は顧問の肩書を持つ。赤水は農民から武士待遇になり、伊能忠敬より四十年程前に緯度経度の入った日本地図を完成させた人物である。一昨年、それらの史料が重要文化財になった。

同じその年、偶然にも赤水の『東奥紀行』の頭注の「名古曽関 一作 勿来」を見付けた。 確信を確実にするため、初めて先生を訪ねた。赤水研究の第一人者である。書も多数出され ている。『東奥紀行』の解説書も出されている。元国語の教師にとって頭注(とうちゅう)の「一作 勿来」は解釈するほどのことではなかったのだろう。

「気付かなかったが、その通りです。甥(おい)の中行(ちゅうこう)がまとめたのだが、水戸藩邸に共にいたので、赤水の指示のもとでまとめられたことは間違いありません。勿来は赤水が作ったということに なります」(後日さらに100年前、同じ水戸藩江戸彰考館の森尚謙が「勿来関」を使用しているのが分かりました。今後謹んで訂正させていただきます。)

平安の和歌の頃、勿来ではなかったのだ。又、蝦夷よ来る勿れも違っていたのだ。利府の勿来も神官の盗作盗用ということだ。勿来は浪越でも、禁止の「な・・・そ」でもなかったのだ。

勿来関はやっぱりいわきだったのだ。

先生は吹けば飛ぶよな雲のような自分だと、ペンネームは片雲という。今回、勿来関に関わって最大の出来事は「一作」を見付けたことだったが、先生に出会えたことはそれ以上だ。 何度かご夫妻と食事を共にした。鹿肉のステーキを大変気に入って下さって、短歌をいただいた。

「柔らかき蝦夷(えぞ)鹿の肉啄(ついば)みつ 清流会は発足せり」赤浜の青い海の見える丘の上、長久保赤水生誕の地に立派な記念碑が建っている。そこが先生のお住まいになる。

近々の再会をお約束して、赤浜を後にした。