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16. 福島県重要文化財専門委員会議長の弁
昭和三十年九月二十一日付で本著 (『勿来関と源義家』)に寄せられた矢代義定氏の序を紹介したい。
『令義解』によると剗(せき)は塹柵(ほりと)の所、関は検判の処とある。勿来の関は奈良朝時代中期までは菊多剗と呼ばれていたものである。随って菊多剗は塹柵の所であって軍事的要塞的なもので後世の箱根の関のような検判の処ではなかったのである。
私は白河も菊多剗もこういう意味でとり扱うべきものであるとの見解を持し、昭和の初頭に史蹟名勝天然記念物保存法に依り文部省に対し指定の申請書を提出した。
当時の史蹟調査委員三上参次博士、黒板勝美博士、荻野仲三郎氏、内務省神社局考証官宮地直一博士等の共鳴を得て文部省としては指定を内定したのであるが、考証以外の事務的関係で指定のことが頓挫して今日に至った。ここに常磐市湯本高等学校教諭佐藤一氏はこの基本的解釈に準拠し旧菊多、現在の勿来市方面の人文地理を精査し一書をまとめあげられたことは近来の快心事である。必ずや国史、地方史に関心を持たるる各位の歓迎を受くるることと思う。本書の不備な点については各位の研究によって補っていただきたい。
いささか所見を述べて序に代える次第である。
私共勿来関研究会の原点の佐藤一先生著『勿来関と源義家』に寄せられた温かいことばである。
これからわかることは、戦前、文部省に指定史蹟認定の申請書が出されていたこと。単なる事務的な問題があったこと。当時の認定者が内諾していたこと。戦時体制突入かはわからないが何故か頓挫してしまったこと。その後誰も再申請をせず今日に至っていることである。
文科省の史跡認定基準が当時と大きく変わってはいないようだが、白河の関がその後の昭和34年(1959)に発掘調査をしていることから勿来の関も小規模の発掘があったのかもしれない。白河は出てきたが、勿来は出てこなかったというような話を聞いたことがある。
白河の関が国の史跡認定になったのは1966年である。
いわき市統合が1967年なので、勿来市からいわき市への合併前夜になる。混乱の中、発掘調査どころではなかったのかもしれない。