since 2021

Welcome to our site

18. 森尚謙、『儼塾先生文集』に見る「勿来関」新発見と訂正とおわび・・・・・水戸藩雑考

郷土の地名の沿革を知りたいというのは、故郷を思う者にとって当たり前のことである。

勿来駅、勿来発電所、勿来インター、日本製紙勿来工場、勿来高校、勿来工業高校、勿来海岸、勿来の関、勿来町等々、明治になって駅名に始まって以来、地域に深く浸透している「勿来」だが、これは元々平安の和歌の「なこそ」があって、それを和かな風に、名古曽、奈古曾、那古曾などと表記し、さらに名乗り読みで名社との表記もある。さらに江戸時代になると、漢字に意味を持たせて仮借し、莫來、莫越、勿来と書いて「なこそ」と読ませるようになる。これらは隣の水戸藩で盛んに行われたようである。

あくまで、ひらがなが先で、漢字は後になる。又、「名古曽関」や「勿来関」と書こうが読み方は、「 なこそのせき」である。「なこそせき」と読むのは正しくない。さて、この「勿来」の出生について、ここで重要なことがわかったので、前説を訂正しお詫びしなければならない。 2023年2月28日まで、 長久保赤水の『東奥紀行』の「名古曽関 一作 勿来関」を根拠に、

①「勿来関」は長久保赤水の創作造語だった。

② 「勿来関」の初見は、平潟洞門の碑である。

以上の二点を主張してまいりました。今回、水戸藩関係文献の調査の中で、 長久保赤水より約100年前に、赤水と同じ水戸藩内で、既に使われていたことが判明しました。ここに、深くお詫びし謹んで訂正させていただきます。 既発表文書は、しばらくの猶予を戴き、随時訂正して参ります。

2023年3月15日 勿来関研究会会長

森尚謙は、1653-1721年 水戸藩の儒学者で医者でもあった。水戸黄門 (光圀)の側近の助さん (佐々宗淳) の推薦で光圀より本紀列伝の作成を命じられた。水戸史学の基を築いた人物である。後には、光圀の命により藩主の侍医侍講となった。字名を利渉子。号は不染居士、儼塾。 1680年頃から1700年頃に書いたものをまとめたもので、計10巻出版された。 版刻本である。 その6巻の目次に「勿来関」とあり、中をめくると 「勿来関」の項がある。 「ナコソノ」とカナが振られている。その直下に「常陸奥州之間」とひと回り小さい文字が刻まれてある。

「 嚴塾集 森尚謙 鑿巌通驛勿来関穿洞置村九面山、思得西行 無路句怒潮翻雪失前湾 」

と、切通関がまだ洞門だった頃を歌った漢詩が載せられている。 (実には、九面の歌は西行ではなく飛鳥井雅宣である)

天理大図書館、国会図書館所蔵参照。「新編常陸 国誌」 当研究会所蔵本参考。 儼塾集の6巻の内容は1690年前後である。 安藤朴翁の 「莫来の関」 が1698年なので、 森尚謙の「勿来関」の方が少し先になるだろう。

この著にもある通り「勿来関」は、常陸国と奥州の間にあるのであって、隣接地の水戸史学は揺るぎないのである。

この著の裏表紙に所持者の揮毫があり宝永四年(1707) とある。 国会図書館では、10巻発刊を1707年としている。 6巻の内容は1680年頃から1702年頃のものである。

2000年頃、東北大学関係者といわき市の地域史家グループが勿来の関は宮城利府がふさわしいと、 史料批判もせずに、たった一冊の書を依書とし、勿来の関をいわきから持って行こうとしたのである。その著の中に数か所引用した文献の原本を確認すると、偽作文であることが明確にわかるのである。史料批判をせずに利府説を公表したのである。

近年勿来関に深く関係するお二人に質問した時、間髪を入れずに江戸時代の史料だけで、史跡認定になると言ったことを御紹介する。この二人が本気になれば、史跡認定になるだろうが、自ら動こうとはしない。 某歴史団体に弓を引くことになるからだろうか。

 森尚謙に戻る。「勿来関」を作ったのは水戸藩内(彰考館)と考えるのが妥当である。でなければ後に彰考館にいた長久保赤水が『東奥紀行』の頭注に「一作」の文字を許可するはずがない。許可したのは、およそ百年前に同門の先輩が「勿来の関」を創作したことを知っていたからだろう。

 ともかく「勿来関」の表記が1690年頃に遡ることは確かである。この頃になると、名古曽関が当地にあったことを示す資料が頻出して来る。(当研究会HP 図書館内 江戸時代の関係史料 参照)

今日、これほどの質の高い原史料に基づいて、勿来関の研究を行えることの有難さと、 特に水戸黄門に始まる水戸史学関係各位へ心から敬意を表するものである。 文化を重んじ、後世に残し伝える、身分や立場を越えての人材の登用と育成。水戸藩の儼塾。 テレビ水戸黄門に描く正義心は、案外真実のように思える。