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封内風土記と利府説を考える
現在、利府町の総の関の近くに勿来川あるいは名古曽川が流れているとのことですが、この呼称は新しいようです。
川一。土人呼(レ)之。日(二)市川(一)。源出自(レ)利府郷想関(一)。而末流會(二)八幡川(一)。
口訳 … 川一つ。土地の人之を市川と呼ぶ。源は利府郷の想の関より出る。しかも下流で八幡川と合流する。
私考 … 本著は、1772〜1781年に行われた、封内風土記書き換え版です。この書のどこにも、「勿来の関、名古曽の関、なこその関、名古曽関、那古會関、勿来神社、勿来川」など、「ナコソ」と名の付くものは、全く出てきません。利府郷として出てくるのは、「総関」でなく「想関」です。平成26年に利府説を一書にした菅原伸一氏は「ソウ」の関から「ナコソ」の関への呼称に関して、次のように記しています。高名な研究者の中には、「なこそのせき」のはじめの音節が何らかの理由で消滅して「その関」、「惣の関」となったのではないかという考えを示されていますが、にわかには賛同できません。この説には少しびっくりさせられました。利府の「そう」も「滝」のことをいうアイヌ語地名と考えられます。
同氏によれば、「留守家日記」(1394〜1428年)に「そうの関」との表記があるとのことです。平安時代の和歌等で「なこその関」と詠われたが約200年後には「そうの関」と言われていたことになります。遠い昔、200年で「なこそ」が「そう」になったと本気では言えないように思います。また、市川と言われていた川がいつの間にか名古曽川そして勿来川になっているのです。
当研究会が『東奥紀行』の中の「一作」を見つけたことにより。「勿来」との表記は江戸時代半ばに長久保赤水が考案したものであることがわかりました。ですから利府説の依書の『奥州名所図会』の「勿来」は盗作であることが分かります。
『図会』については、改めて後日お話しします。
『封内風土記』は伊達藩が領内の詳細な事柄をまとめ挙げたものです。位置、戸数、寺社名、山川名、池名、橋名、役人名、産物等々多岐に渡り調査されています。1781年頃には完成しています。赤水の『東奥紀行』が出たのがその10年後ですから、ナコソ川があれば、あるいは「名古曽川」として出てきていると思われますが、あるのは市川の一つだけとなっています。なかったのか、漏れたのか、間違ったのか…。それほどの名前のものなら漏れるはずがないでしょう。現在では堂々と勿来川になっているようです。
また、「総関」の呼称は『図会』によるものなのか、しかし『風土記』は「想関」になっています。良い名称だと思いますが。
正史料に基づかないで他者を否定して名称を付す場合は、慎重にすべきだと思います。
あるいは、なこその関が二つあったのでしょうか。もしそうであれば万葉の歌も二地に二分して詠む必要があるでしょう。やはり、元々「そうの関」だったものを、 『奥州名所図会』で赤水の「勿来関」 を盗用し、その後に作られた『塩松勝譜』を見た人達によって「勿来川」「名古曾神祠」が作られ、さらにそれを見て確信した人達によって「そうの関」 が 「勿来関」に変化したと見るのが自然ではないでしょうか。
「勿来」 は、 赤水がいわきの名古曽関に付けた文字です。 完全に盗作ですから使わない方が良いと思います。 宮城の神の手ではないのかと、あきれている人もおります。しかし、富士山は全国どこにでもありますから、有名だと盗作も仕方ありませんかね。