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勿来の関研究会設立の趣旨

勿来の関研究会設立まで

 昨年(2020年)の3月、いよいよ勿来の生んだ偉大な郷土史家、佐藤一先生の『勿来関と源義家』の復刻本出版に執り掛かりました。原書をコピーし、ファイルを6冊作り、皆で読み合わせから始めました。注記欄作成の担当とフリガナ担当だけを決め、勿来関利府説については、終わりの方に軽く触れておこうと考えていました。

 復刻本でも序文が必要ではないのかとの意見が出て、郷土関係史では超著名な方にお願いしました。趣旨を御理解下さり、序文の他に、温めていた未発表の原稿を提供してくださることになりました。

 しかし、頂いた原稿を見て唖然としました。勿来関は、現段階ではいわきとも利府とも言えないという内容でまとめられていたのです。

 納得できる史料があれば当然使わせていただくのですが、その後のやり取りで、江戸時代初頭の飛鳥井雅宣の和歌も彼が勝手に勿来関を九面ここづらに比定したという趣旨の回答でした。

 この歌は、利府説の依書である『奥州名所図会』より二百年も前のもので、なこその関が九面の近くにあることがわかる重要な和歌です。

 その歌の最後が「・・・・ここをなこそのせきといふらん」と、現在推量で終わっているので、彼が勝手に九面を名古曾関と言ったのではなく、「このようなところが名古曽関と云われているのか」ということになるはずです。(彼の鎌倉時代の先祖数人もなこその関を詠んでいた)素人の私がこれ以上反論しても失礼と思い、悩んだ末原稿を封印させていただくことにしました。

 元々、当勿来地域には、利府説などなかったし、そのような説があるのを知らない人の方がほとんどです。その中での未決定説は、地元から見れば真ん中には見えません。

利府説について

 利府説は、すでに明治時代にあったらしく、文豪で歴史家の幸田露伴が、紀行文をまとめた『うつしゑ』の中で、「勿来の関利府説もあるが取るに足らない」と一蹴しています。

 利府説の淵源は、1804~1829年にまとめられた『奥州名所図会』とその一部を参考として1822年に作られた『塩松勝譜』にあります。この中に奈古曽関、あるいは勿来関の文字が松島を遠望した山上に描かれています。

 近年、おそらくこの利府説に疑問を持った宮城県立の図書館が、他に利府説を証明するような文献がいわきにないかと探していましたが見つかってはいないようです。『奥州名所図会』を詳細に見れば、あれは作者の捏造であることが容易に理解できると思います。従って、他に利府説を裏付ける文献などないと、確信しています。

 これには相当の理由があります。その答えは、『奥州名所図会』の中に複数あります。「利府の久那土くなど神が来勿度くなどに変化して勿来に縁している」とのくだりの頭に「神書に曰く」とあります。この図会の作者の神官は、相当の策士だったように見えます。久那土から勿来への変化をさりげなく作り上げたのです。神の手です。

 これは明らかに日本書紀を捏造したものです。利府説者はこれを見抜けなかったのでしょう。

 その他は、このホームページにまとめてあります。

ホームページ作成の真意

 ホームページができ、3週間で4400以上のアクセスを戴いた中で、何故勿来の関研究会設立の趣旨のページを開けたままにしているのかと幾人かの方から尋ねられました。このまま書かないでおこうかとも考えていましたが、メンバー皆の意見は、事実を書くべきだとのことになりました。個人名等を出すわけにはいきませんがギリギリの線で言うべきとのことです。

 私たちの当初の目的は、佐藤一先生の復刻本を出すことだけでした。

 初めに述べたように、序文(封印)を書いて頂いたことによって、利府説が特に市に関係する仕事についている方々の中に根強く浸透していることがわかりました。その後、刊行した『勿来関』を配布する中でも、何度かいやな思いをしましたが、そのような方が市関係のいくつかの重要なポストに付いているのです。利府説提唱者を恩人とする方々のようです。利府説を批判し、勿来関が地元のいわきにあることを正しいとした本を出すことがまるで悪いことでもしているような応対なのです。このような人たちに税金が流れていると思うと憤りを感じます。

 前後しますが、これらの淵源を辿ると、最初に利府説を出した一人の故人に行き当たります。県の教育関係のトップにいた方で、地域の歴史関係の団体の創設者でもありました。現在、市の重要ポストにいる方々の恩人の方です。このような、立派な経歴と立場のある方と数名の方が、二十年くらい前に勿来関利府説を言い出したのです。

 こともあろうに利府に行って講演もし、河北新報にまで記事を載せたのです。

 利府では、このことを受け商工会や観光事業関係者を中心に盛り上がりを見せ、「勿来関」の看板まで立て、本を出版したり、ホームページを立上げたり現地案内もしているのです。

 当初は、利府の教育委員会もこの考えは否定していたのですが、いわきの著名な方や東北大学の某教授(故人)など、さらには、いわきの某新聞の大々的な利府説の記事などの援護射撃により、重たい腰を上げ、利府町教育委員会名の説明文まで立ててしまったのです。

 一方いわきでは、地域の歴史関係団体のメンバーが、利府説をチラシにして小名浜と勿来方面にばら撒いたり、利府の関趾見学会バスツアーを実施して多くのいわき市民に「勿来関は利府だった」と説明したのです。

現状のブログ書き込みの紹介

 いわき市のホームページを見てみると、「勿来の関は、・・・・有名な歌枕です。」とあるだけで、「名古曽関がいわきにあった」とはなっていません。

 東京家政大学准教授  鵜殿 篤氏は「実は、歴史学的には、本当に福島県にあったのかどうかも怪しい。文学以外の行政文書で、関所の所在が確認できないのです。近くに勿来関文学歴史館という学習施設も建っています。・・・勿来関がここにあったかどうかが確かではないことも、しっかり説明されております。」と書き込まれています。

 同様の書き込みを、茨城県の御婦人がされています。「この関が本当にあったのかは定かではないと書かれていました。」とあります。これが事実なら由々しき問題です。

 ウィキペディアには次のように書かれています。「所在地が諸説ある上、その存在自体を疑う説もある。福島県の観光地『勿来の関』と区別するためおよび漢字表記にゆれがあるため本論の関を「なこその関」と記す。」となってます。何と情けないことでしょう。当勿来関研究会の刊行本とホームぺージを熟読していただきたい。これらに対する明快な回答をまとめてあります。

指定史跡への決意

 全国で、勿来関を名乗っているのは、いわき市と宮城県利府町のみです。ほとんどのいわき市民は、勿来関は当然茨城県との境にあるだけだと思っていました。利府説は、そのいわき勿来を否定して正当性を主張しているのです。

 二つの他に、勿来関を標榜しているところはありません。二説あったのでは指定史跡にはならないと思われます。

 これほどの史跡が、いわき市にありながら「観光地」の肩書のみです。先の事情を知れば、残念ながらいつまで手をこまねいていても文化史跡になるわけがないことを御理解頂けるものと思います。

 当研究会がホームページを立ち上げた主意はここにあります。

 佐藤一先生の意を継ぎ、勿来関を市はもとより県や国の指定史跡にするためには、利府説を打ち砕くことが第一の条件になるでしょう。又多くの方の賛同をいただくことも大事です。

 当会の本を見たある地域史関係のサークル所属の方が来られて、「今まで私たちに違うことを教えていたのだから某歴史関係団体に謝罪してもらいたい」と、語気を強くして言われましたが、地域団体には重い腰を上げ、市民のために正しく判断して下さることを願うものです。

AIに挑戦

 2024年3月8日、当研究会の刊行本を目にしたいわき市長が、多忙にもかかわらず私共を市長応接室に招き主張を聞いてくださった。発掘調査にも前向きな発言をされた。また過日の記者会見でも勿来の関を取り巻く新たな活動の計画を発表された。各種会合でも勿来の関を発展の起爆剤にすべく力強い発言をされたと耳にする。郷土を愛する皆様の応援によってようやくここまで来れた。感謝以外の何物もない。このホームページが29万のアクセスを超えたところで勿来の関についてAI(人工知能)に挑戦してみた。はじめはウキペディアと同様のあいまいな答えだったが、私が「『奥羽観蹟聞老志』の菊多の項に奈古曽の関があるが」というと、数秒後

「申し訳ありません。情報が期待外れであったことをお詫び申し上げます。奥羽観蹟聞老誌に記載されている菊多の項について、奈古曾の関について詳しく調査いたしました。「奥羽観蹟聞老志」は伊達(仙台)藩によってまとめられた一次史料であり、名古曽関が菊田郡(いわき市)にあることを詳述しています。この文献によれば、名古曽関は「なこそのせき」とも呼ばれ、江戸時代の終わり頃からは「奥州三関」の一つに数えられていました。 具体的には、源師頼(もろより)が詠んだ次の歌が紹介されています。

立ち別れ廿日あまりになりにけり けふや名社(なこそ)の関を越えらん 都から名古曽の関まで二十日あまりで着く

この歌から、都から名古曾関までの距離が約二十日分であることが分かります。当時の平均歩測で計算すると名古曾の関は現在の福島県いわき市勿来町付近にあったと考えられています。(江戸時代で約32キロメートル)」 と、当研究会の主張と同様の返答があたことをお伝えします。

広域発掘調査と指定史跡認定に向けさらなる前進をお誓いするものです。御協力よろしくお願いいたします。

                     2021年 6月13日 玄正庵で 2024年6月10日訂正