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7. 勿来の関を探す

関の具体的な位置は不明だ。

菊多(田)と現北茨城側の境界線付近にあったであろう柵剗(せき)は、当然菊多の関になる。

古い地図や字切(あざぎり)図や江戸期の絵図などを見ると7本程度の道があったようだが、人一人が通れればよかった時代、馬一頭が通れればよかった時代、やがて駅家ができて早馬が通るようになった時代、次に南北朝期のように数千数万の騎馬が通った時代等々使用目的によって変わって行く。

現在の海側の国道(昭和時代)や切通(江戸時代)は除外して、あちこち歩き、離れては眺めするのだが、本当の位置はわからない。発掘調査を待つしかない。皆で、帰りに五浦カントリーや五浦の茨城県立美術館でカレーを食べコーヒーを飲み景色を眺めて帰ってくる。

窪田に、朝廷に同化した蝦夷が住んでいて、北方から朝廷に抵抗する蝦夷が来たならどうなるか、背中側にある山々が関だったら、皆殺されてしまうではないのか。蝦夷の南下を防ぐ目的で作られたのなら北側の鮫川こそ関になるのではないのか。それが勿来の山々を関とするなら、それは茨城側で作ったのではないのか。だが酒井窪田側(いわき側)に多くの住居跡が確認できる。三代格によれば、柵を蝦夷(えみし)に造らせたこともあったようだ。何が何だかわからなくなってくる。

近在の蝦夷が朝廷に同化し、関が長らく不要になるが779年に30人ほどの関守が配備された。

それからおよそ50年後に茨城側の鹿島神宮神官が関の通行を拒否された事件が起きた。窪田側から見れば、南側すなわち蝦夷側でなく、朝廷側の人間に対して通行を拒否しているのだ。この時の関守の館は、海側の御城前館とかクマン道の上にある古舘だと思われる。その末裔と称する方々が今でも海側の関田に居る。

北茨城側の上野あたりに関があったという方もいたようだが、佐藤一先生は、否定している。

関本の名称の始まりが『新編常陸国誌』に出ているが、元は単に上野と言っていたものを正保、元禄の間に関本上と改めたとある。頭に関が付いたのは江戸時代だったということは、古代の関があったというより、水戸藩が『古今類繁常陸国誌』をまとめた頃と同時期であるのでそれと関係するように思う。『古今類繁常陸国誌』にあるのは「歌書にいう所の那古曾の関」とあり、『新編常陸国誌』では、それは菊田側の山上にあるとまとめてある。

水戸藩が公式に名古曽の古関が陸奥側の現関跡 (付近)であると言っているのだ。また、それを「勿来」の漢字に創作したのも、同じ水戸藩の江戸彰考館である。

江戸時代刊の『太平記大全』の南北朝期を画いたところに常陸等三万騎が「名古曽の関を打ち越えて岩城郡に至る」とある。誇張はあるにしても相当の騎馬が通るような道は限られてくる。大槻の道と出蔵(いでくら)の道しかない。 しかし、数十年前まで大槻の道には随道(ずいどう)があって馬一頭、それも 乗ったままでは難しいほどだったと土地の人は言う。すると、西側の酒井に出る出蔵街道しかない。「打ち越えて」とあるので、 名古曽の関が山にあった風景になる。これは南北朝期だ。

江戸時代の歌は海に近い新道の切通しの関を詠ったものが多いが、そこからおよそ800メートル西側の山の上、現関跡付近に関があったとするなら、海に近いので平安和歌に似合う景色になる。

また、三代格には鹿島神宮の神官が関の通行許可を受けるため、関の下で待っていたともある。関の下には川が流れていて、帰る時幣物(へいもつ)を捨てたとある。これからも関は、行く道の高所にあったことが伺える。

そして関の下に相応の流れがあったのだ。また、馬の話が出てこないので徒歩だったのだろう。これに似合う風景を探し、 山中を歩いたが、現関跡のコースしかない。蛭田川と酒井原の付近に見立てる方もいるが、平安時代の官道や南北朝期を考えると符合するが、歌に詠われた海岸の景色ではない。

関跡を常陸側に下ったところに里根川がある。新編常陸国誌に出て来る名古曽関の景色にも出て来て、三代格と符合する風景である。

このようにいろいろ考てくると、勿来の西から東までの全山が、越え難き関だったように思える。その中で平安和歌に近いのが現関跡でよいと当研究会は考えている。

佐藤一先生も東は海辺からの全山を防衛線とし、歌所をほぼ現在地でよしとされている。その中で候補地は何点かあるのだから、本格的な発掘調査の実施に期待したい。