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12. 公文書に見る「名古曽之関」

「名古曽関」は平安の昔から歌枕や随筆などには登場するが、公文書には出てこない。だから常陸国と陸奥国の境にあったのは菊田関であり名古曽関は別の所か、そもそも無かったのではないのかとの説がある。

公文書で名古曽関が出て来る今のところの初見は江戸時代になってから隣国の水戸藩で作った『古今類聚常陸国誌』 (1667年) である。その次に、江戸幕府の『裁許書』 (1710年) がある。当ホームページの図書館の中に写真を納めてあるので見ていただきたい。

これらの史料を見ても前説者達は、いわきの勿来関は江戸時代になってから平藩主によって作られたもので往古のものではないという。

これらに対しての見解を述べることにする。

そもそも「なこそ」とは平安時代に菊田の関で 鹿島神宮神官が通行拒否になったので朝廷に訴えたユニークな話を受けてからの呼称であり公文書に使うような名称ではなかったのである。爾来数百年も過ぎた江戸時代になって市民権を得た「名古曽関」があるいは水戸藩江戸彰考館が創作した「勿来関」がようやく公文書に登場するのである。

その中で江戸幕府の『裁許書』 (1710年)についてご紹介したい。国境論争の幕府の判決書である。畳三枚ほどの大きさで和紙を厚く重ねた表面に判決文と当時の一座三奉行計11名の署名判があり裏面は判決内容を地図に描いたものとなっている。窪田地区振興会所蔵のものを見せていただいたのだが、大変立派なものだった。地図も見事なものなので、相当の手間を掛けて作ったことがわかる。これを三枚作り幕府、原告、被告の三者が保持する。佐藤一先生は、被告側(常陸国側=敗訴)のものを見て著に残している。この裁許書に次のようにある。

「窪田村 (陸奥・いわき側)訴之候、切通り名古曽の関山続き関田村より沢え下り、常州 (常陸・北茨城側) 中野村と窪田境沢通にて・・・(中略)・・ 裁許り上、後鑑の為絵図面に墨筋引き各々印判 を加え双方にこれを下置間、永く此の旨相守り再び犯すべからず者也宝永七年庚寅六月十二日(11名の著名押印)」

当時の最高裁の判決書に名古曽関がいわき側として明示されているのである。

誠に残念ながら特に、いわき市の地域史研究家の中で勿来関利府説を唱えた数名の方がいたが、この事実を広く市民に開示することもなく勿来関をいわきから捨てたのである。

「平藩主が勝手に名古曽関所在地を比定した」(主旨)そのようないい加減な場所を幕府のいわば最高裁判所が判決書に書くだろうか。あるいは、複数の名古曽関があったのならなおのこと、菊田(多)の関とか菊田の名古曽関とか書くのが普通だろう。

公文書ではないが、これより50年も前に『太平記大全』には「名古曽の関打ち越えて岩城郡に至る」とあり、さらに50年前(1609年頃)に「ここづらや潮満ちくれば道もなしここをなこその関といふらん」と 飛鳥井雅宣の詠った和歌がある。江戸時代に入ったばかりの頃である。茨城県との境にある小さな漁村である九面の近くになこその関があると詠っているのである。これらは内藤平藩主が着任するかなり前のことである。これらのことを一切無視して、勿来関利府説があるのである。江戸時代になって名古曽関が公文書に登場した背景の一端を述べたが、これだけのものがありながら、いわき市としては、単なる「観光地」区分である。何と悲しいことか。多くの方のご理解と御支援を心から願うものである。

追記 … 実はもう一つの裁許書がある。これは菊田郡内の村と村の入会地訴訟の判決書 (1688年) で、文中に名古曽関はないが、絵図があり「名古曽関」と書かれてあり、最後に8名の奉行の署名がある。