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5. いわき勿来の関を示す江戸時代の多くの史料

当ホームページの「史料倉庫」にある江戸時代の史料をご覧ください。

これらのほとんどは、江戸時代の始めに造られた海側の切通の関の方を示しています。

しかし、中には境界訴訟で幕府から両者に出された判決書のような公文書があります。その中には、名古曽関の文字が入った判決文や同じく名古曽関の文字と二つの石塔が入った絵、その他一昨年国の重要文化財になった赤水図や伊能忠敬の地図にも「ナコソ」や「ナコソノ関」もあります。国の最高機関で名古曽関が奥州菊田にあることを認めていたのです。

江戸時代の始めに詠まれた歌に「九面(ここづら)やしおみちくれば道もなしここをなこその関といふらん」というのがあります。旧関跡の山の下に切通の新関があります。ここを九面と言います。一つの歌の中に名古曽と九面が出てくる貴重な歌です。この工事は江戸時代の少し前からはじめられたもので、旧道を意識して作られています。

古今類聚常陸国誌(こきんるいじゅうひたちのこくし)には、旧道の関を「歌書にある関、いわゆる名のある名古曽関」と記しています。

このことからも、ここに名古曽関があったことが推定できます。その他江戸時代初期の『太平記大全』 には、陸奥の入り口に名古曽関があったことが明確に出ていました。

「名古曽ノ関打越ヘテ岩城郡二至ル」との一節です。『太平記大全』は四十巻もの軍記中心の大衆向け読み物です。 誇張部分もあると思いますが、地理に関しては、一級史料になると思います。

現在わかるだけでも50以上の物件が名古曽関、あるいは勿来関がいわきだったことを証明しています。