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11.「蝦夷よ来る勿れ」は間違い

菊多は養老二(718)年までは多珂国あるいは多珂郡、則ち後の常陸の国の領地だった。類聚三代格巻第一によれば西暦四百数十年頃に菊多の剗(せき)が置かれたとなっている。719年に石城国に駅家十ヶ所が置かれたと続(しょく)日本紀にあるので菊多の地にも官道が敷かれ ていたことが分かる。常陸との国境を挟むようにいくつもの寺社ができてくるのは平安時代になってからである。私たちが探しているのはそれ以前の古道である。

官道なら幅員六メートル程はあったのかと思うが、菊多の山を越えるそれほどの道はない。しいて言えば北茨城市富士ヶ丘といわきの出蔵酒井を結ぶ道路のみで明治期の丈量(じょうりょう)帳を見ても幅三メートル程度しかない。

この他の古道は推して知るべしである。時代的に見て菊多のは、地形を利用した柵だったと思われる。三代格には、同化した蝦夷に作らせたことも記されている。

又、定住しない蝦夷は山から山を獣を獲りながら木の下に寝て移動していることも記さている。

常陸の国(多国)の最も奥にある菊多側の山の尾根伝いに柵を設けたことは、菊多の住人 を蝦夷から守るためではない。さらに東北にはすでに多賀府があったことを考え合わせれば「蝦夷よ来る勿れ」として作ったのではないことが明確である。まして811(812)年には陸奥の国の征夷は終結している。関が不要になっていたのである。ところが835年の太政官府に白河と菊多の両剗の通過を再び厳しくするよう(関の看過)合わせて六十人の関守を配置したことが書かれている。陸奥の国の入口の二つの関のみ活きていたのである。これは蝦夷との密貿易で財を成す悪徳商人に対する取り締まりのためである。 太政官府にもそれが伺われる記述がある。なこその関が初めて登場するのは850年頃の小野小町の和歌である。この時は、菊多と白河の関しか活きていなかったのである。

以上を総括すると、「なこそ」の語源は「蝦夷よ来る勿れ」ではない。歴史を語る物差しにすべきではない。まして「勿来」は江戸時代の長久保赤水の創作文字である。平安の歌は「なこそ」であり漢字は後の物である。元々は菊多にあったから菊多の関である。その他は前項をお読み頂きたい。