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10.「名古曽」を推測する

「なこそ」を和かなで書けば、「名古曽、奈古曽、那古曽 (曾)」、名のり読みを使った「名社」もあ る。以上は平安時代だが、江戸期になると水戸藩江戸彰考館の森尚謙の『儼塾集』に「勿来関」、安藤朴翁の『ひたち帯』に「莫来」、長久保赤水の『東奥紀行』に「勿来」と「莫越」が出て来る。「なこそ」の関が「来る勿れ」と漢字表記されたのは江戸時代になってからである。したがって「蝦夷(えみし)よ来る勿れ」の言い方もその後に出てきたものと思われる。

それを平安時代から言われていたように捉えてしまったところに、いわき勿来関否定説の淵源を見ることができる。

平安時代、和歌に詠われた頃、朝廷に手向う蝦夷はいわきにはいなかったのに、いわきで蝦夷よ来る勿れは符合しないというのである。

「勿来」の由来を知らなければもっともな論理である。しかし、「勿来」は江戸時代に江戸彰考館がいわきの「名古曽関」に一作したことが判明した以上、この論理は取り消されなければならない。史学関係各位の謙虚な対応を望みたい。

そもそも和歌に詠われた「名古曽」については、近年言われ出した常陸国鹿島神宮神官の通行拒否事件 (848年)が関係しているのではないだろうかとの記述を見ることがあるが、いずれも紹介のみで考察はない。

これを考察することは 「名古曽関」が菊田関の異名であり、「名古曽関」がいわきにあったことを認めることになる。名古曽が勿来であり、いわきに暴れる蝦夷がいなかったのだから「蝦夷よ来る勿れ」からすれば勿来はいわきでない。そこに矛盾が生じてしまうことになる。考察を避けた理由は、このようなことと考えられる。

官位ある鹿島神宮の神官が関守によって通行拒否された事件は、朝廷への訴えによって瞬く間に都の役人・歌人たちに広まったと思われる。ここまでは、何人かの方が述べられている。

京都大覚寺に大沢の池がある。その片隅に名ばかりの人工の滝の跡があり「名古曽滝」の看板が立っている。名前の由来は、百人一首にある藤原公任(きんとう)がここを詠った「名こそ流れて」から後年付けられたとの文化財関係者の説明だった。

都人が「名こそ流れて」から「名古曽滝」と銘打っていたのである。

元々「名古曽関」も地元(いわき)での呼び方ではない。地元では関が山にあったので、単に関山と呼ぶ。「菊田関」さえ地元の文献には出てこない。「名古曽関」の呼称は、鹿島神宮神官通行拒否事件の二年程後に小野小町によって詠われてから歌枕として地位を築いたのであって、元々公の呼称ではなかったのである。

「なこそ」は「浪越し」からできたとか「な・・・そ」の禁止語から付けられた等の解説が全てであるが、前述の名古曽滝もその他橋本市の名古曽城跡も海から遠く離れている。

平安の歌の「なこそ」が先で、漢字は後に仮借 されたことを念頭に置くべきである。

さて、鹿島神宮神官通行拒否事件が「名古曽関」にどのように結びつくのかについて考えてみたい。

大沢の池の人工の滝が「名こそ流れて」から「名古曽滝」と銘打たれた事実は、都人の「名古曽」観と名称の付け方を考える上で極めて重要である。 当初、滝に名前があったのかなかったのかわからないが、大量の水が流れていたそうである。公任が歌会で詠んだときは、面影を残すばかりで滝と呼ぶほどではなかったようなので

「滝の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ」

と詠ったのである。禁止語や浪越しから付けたのではない。「名前は忘れてしまったが」程度のいわば遊び言葉から付けられているのである。

官位ある鹿島神宮の神官が関守によって通行を拒否されたユニークな事件は、訴えが都に届くや陸奥の入口にある堅き関守、越え難き 関から越え難き恋歌にまで敷衍したのである。陸奥の入口にある関の名は覚えていないが、あるいは忘れたが、則ち「名こそ流れてしまったが」が転じて「名こその関」と呼ばれたのではないだろうか。従って鹿島神宮神官通行拒否事件があったから「名こその関」が生まれた のである。

「蝦夷よ来る勿れ」など全く関係なかったことがおわかり頂けたものと思う。

利府の勿来関は、「なこそ」がいつの間にか音便化して「なこ」が消え「そうの関」になったと某大名誉教授が言ったそうであるが、これが学説になるのだから笑止千万である。

『東奥紀行(1792)』の「一作」も『奥羽観跡聞老志(1719)』の「菊田郡 名古曽関」も『邦内風土記(1772~1781)』の「想関・市川」も『太平記大全(1659)』の「名古曽関打ち越えて岩城郡(いわきこおり)に至る」も江戸幕府の裁許書(さいきょしょ)の「名古曽関」も全て、名古曽関がいわきにあったことを当然としている。(当HP 研究会図書館参照) 宮城利府説の依書は、利害関係にある大崎八幡宮の神官が画いた『奥州名所図会(1804)』とそれを基にした『塩松勝譜(1822)』のみである。

かつての神の手に似てぞっとするが、利府町で間違っても「勿来」等の名称で史跡認定をすべきではない。

一度流布した間違いを正すことの困難さを実感している。 当研究会はできるだけ証拠史料のみで勿来関がいわきにあったことを示している。江戸時代だけでも50件を超えている。まして参勤交代に使われた「名古曽切通関」が現存しているのに、市の史跡にさえなっていない。これほどの史料があるのだから可能な所から進めればよい。

後世に禍根を残さないために、何としても一歩前進させたい。

険難な道は始まったばかりである。