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10. 「勿来」の出所に思う

「勿来」は長久保赤水が1792年『東奥紀行』で「一作」と明かしています。その時もう一つ「莫越」も紹介しています。共に「なこそ」と読ませます。

昭和の初め頃の文献には「莫越」も出て来ますが今では使う人もいません。車社会になり道路が広く整備され、「莫越」が解消されたからだと思います。 『東奥紀行』 の前に、古川古松軒が「 勿来」を使っていますが、さらにその前に『平潟洞門碑』で赤水が「勿来」を使っています。今のところそれが最も古い史料になります。赤水(実は江戸彰考館か)が「名古曽」を「勿来」に創作したわけですが、そのアイデアの大元になったような文献があります。

『東奥紀行』より約百年前(1698)に刊行された安藤朴翁の紀行文 『常陸(ひたち)帯』 です。

二十五日 大塚 薄葉 木皿の里々を過ぎ、磯原の浜につきぬ、御旅舘ちかき家にやすみて、餉(かれいい) (乾燥飯) たすはりつゝ なほ日かげなこそ高ければ名にしをふ莫来(なこそ)の関見にまかるべきよしをほせらるゝまゝ、人々いざなひて、出でゆくに、右のかたは海ちかくて、あら磯なみ耳をおどろかしていとかまびすし、神岡・ 粟野などいふ村をとほり、莫来の山をのぼる、峠に岩きりとほす事六七十間もやあるらん、高さは四五丈ばかり、ひろさは荷掛駄一疋のかよふほどにて、上はなほせばく、わづかに二尺ばかりとおぼゆ、… (『 常陸帯 』 抜粋)

「勿来・莫越」の百年前に実際に名古曽の関に来た人が「莫来」と表記していたのです。

この「莫来」を二分すれば「莫」と「来」になります。「莫」の下に「越」を付ければ赤水の「莫越」になり、「来」の前に「勿」を付ければ、同じく赤水の「勿来」になります。又、「莫」は「勿」と同意語なので「莫来」は「来るなかれ」と読みます。

又、書名の『常陸帯』は水戸領内の鹿島神社に伝わる祭事です。その鹿島神社は 『三代実録』の「嘉祥三年」 (848) の頃に出て来る「神官通行拒否事件」の神官のいた神社です。同社の神官が菊田の関の通行を許されなかったユニークな事件です。すなわち関守に来るなと拒否された事件です。

それから約750年後、 同社の 『常陸帯』の名を付けた冊子にあの関を 「莫来の関」として載せたことになります。

そしてその百年後、同じ水戸藩内で「勿来」が創作されたということになります。

「莫来」も「勿来」も漢文なら、訳せば「くるなかれ」となり同意語ですが、そのままでは「なこそ」 とは読まない。共に「名古曽」から一作したものです。「なきそ」「な・・・こそ」の文法がどうので はなく、又、「浪み越し」 からきたのでもありません。鹿島神社の神官通行拒否事件から「莫来」ができ、やがて赤水によって「勿来」 に変化したものと、言ってよいと思います。

『常陸帯』 は、有名な書籍だったようなので、水戸藩内では読まれていたようです。「勿来」の出所が「莫来」だったとみてよいのではないでしょうか。この書の中に、旅を共にした計8名の歌が記されています。 その中で朴翁の甥の定輔も「莫来」を使っています。 朴翁に合わせたものと思われます。

又、『新編常陸国誌』には、「勿来・莫越」について「仮借」(かしゃ・かしゃく)であり、浪越(なみこし)の意であると書かれてあります。この書を作ったのは、赤水の後輩筋に当たる方たちなので、「勿来・ 莫越」は赤水の一作であることは、当然知っていたでしょう。それで「仮借」と断定できたのでしょう。同様に「莫来」は安藤朴翁(定為)の仮借あるいは一作だったものと思います。切通の坂の上の方で二尺しかなかったとあるので、洞門を切通にしたばかりのころだったと思われます。いずれにしてもこれは新道で、旧道にある古関跡には、行ってません。

ともかく、元禄十年(1697)に8人で名古曽切通の関に来て「莫来の関」と詠った事実は、大きいと思います。文面を汚しますが、利府説にはこのような正史料は全くありません。全てが「私はそう思う」、「…と考えられる」 の世界です。まずは、正しい史料に基づいて、客観的な判断をすべきです。

当研究会がHPに披見している史料をまじめに読んでいただきたい。「勿来」は赤水がいわきの名古曽関に一作した文字(東奥紀行)で、その名古曽関は、菊田郡(現いわき市)にあると、仙台藩で公式(奥羽観跡聞老志)に言っているのです。 又、利府にあるのは、想の関と市川だと、やはり仙台藩(封内風土記)で公式に言っているのです。このことを素直に認め、みっともない看板を一刻も早く外すべきなのです。